2013年12月30日月曜日

「無料」の価値。

無料というものには
無限の価値があると同時に0でもある。

全く不思議なものだ。

最近良く思う。
価値はそこに存在するその時点で
一定の本質的な価値がある。

同時に、人間の世界において
価値を定めているのは人間だ。

だから、人間目線の価値で判断する。


本来の価値と人間が定める価値には
ズレがある。

地球全体で考えれば
自然は最大限大切にするべきなのは
誰だってわかるはずだ。

しかし、人間の価値においては
さほど高くない。

必要なのもわかってる。
でも、有り余っているから価値が「低い」と
されているのが現状だ。



話しを戻そう。

無料。
僕自身少し前までその言葉に弱かった。

しかしここ数年、ありがたいことに本当に良い物に
触れる機会にも恵まれた。

触れてみて初めてわかるその差。

物だけではない。
人間もそうだ。

人間を価値ではかるなんてナンセンスかもしれないが
はからずとも感じてしまうようになった。

あくまで主観の話しなので
他の人が同じだとは限らないし
価値観はそれぞれだから感じ方もそれぞれで当然。


それぞれ違うと良く思う。
だからこそ自分の考えを言わなくなった。
無駄に論争することも好きではないし
論破することに興味が無くなったからだ。

究極の争いのいきつくところは
平行線だと悟ったからだ。

価値観の違いをただすということは
自分の過去を否定するか
相手の過去を否定する事に
繋がるような気がしている。

そんなことまでして
自分が正しいなんて言い張りたくない。

それに、自分が全てにおいて
正しいなんて思っていない。


無料というものの価値。
それはまさに価値観の違いで
魅力的にも価値が0にも思える。

 無料で喜ぶ人は
金銭的に少なからず枯渇感を抱えながら
生きている人と言えるのではないか。

もしくはお金に対して劣等感を持っていたり
罪悪感を持っている人達。

無料の魅力は
金銭のやりとりがないということ。

無料とうたうからには
何かを提供します、でも、お金は頂きません。
という場合がほとんどだと思う。


僕は今までお金に対する罪悪感と劣等感から
無料でなんでもすることがいいことだと思っていた。

誰彼構わず提供してお金を頂かない事が
美徳のように感じていた。


しかし、最近思います。
俺はお金がない人にとっては確かに
少しの価値は提供出来たのかもしれない。

でも、お金を持っている人に対して
それでは価値を提供出来ていないのではないか。


お金を持っている人達というのは
価値があるなら少々高くても喜んでお金を支払う。

求めているものを早く、上質な物を確実に提供する。
求めているのは無料や値引きなんて言葉ではなくて
最大限のクォリティなんだよね。
むしろ、そこしかいらない。


僕はずっと自分自身のお金がない痛みを
人に重ね合わせて癒そうとしていたのかもしれない。

一環して言い続けた「見返りを求めず提供する」ということ
もうじゅうぶん証明出来たかな。

行動で示したかったんよ。
こんな人間もいるんだと。


ここからは価値の提供に力を入れていきたいんだ。


こんなことを思い出した。
フリーマーケットでハンドメイドを売ってた時
おばさんが値切ってくるんだよね。
僕はおばさんが気に入ってくれたのなら。。
と応じたのだけれど
おばさんからしてみれば安く買えればそれでよかったんだよね。
そして値切るということは
その商品にそれだけの価値はないと言い放ってるも同じ。
大量生産したものを流通を通して量販店で販売しているものなら
まあまあ。。と思うけど、
一対一でハンドメイドのものを値切る人って
ちょっと変わってるよね。

自分が得すればそれでいい。
僕の今の行動はそんな考えの人を引き寄せてるように思えた。

なおきちを利用して自分が得すればいい、
口には出さなくとも本人も意識しなくとも
無意識の段階でそんなことを思っているから
行動にでてしまう。

それでもかまわないと思っていた。
別に腹もたたない。
人間なんてそんなものってどこかで思っているから。

だから見返りを求めてないと公言出来るのだと思う。
とてもさみしい人間なのだろうなぁと自分自身思う。

でも、同時にそんな人ばかりじゃないことも知ってる。

どうしょうもなく優しくてあたたかい人もいる。
俺を利用しても利用した分返そうとする人もいる。
口には出さないけどそういうのはちゃんとわかる。

いいことはみんなのおかげ、
悪い事は俺のせい。
それは心のそこからそう思う。

何事も言い訳なんてしない!
全ての原因は自分自身なんだ。
どんなときも。



少し前にフリー戦略というのが流行った。
これはすごいと正直思ったし
これは本質に近いと思った。

インターネットやデジタルを使えば
この戦略は最強かもしれない。

だからこそ、無料というのは
これから恐ろしい物になる。
何かを受け取るということは
同時に何かを失っている可能性が
非常に高い時代がくる。

無料で受け取った便利な物が
人生を狂わす。
それはもうこの世の中では起きている。

全てはちゃんと理解して納得したうえでやること。

受け取る物と差し出すものを
自分の価値観で考えて差し引き納得出来るなら
受け取ればいい。

仕組みの裏側になにがあるのか。
それを考えないと恐い時代になる。


2014年は自分の価値観でいくと決めてる。
何が起きようとも。

人が離れる事もあるだろう。
しかし、その事によって新しい風が吹くだろう。
俺から切る事はかなり少ない。

価値を高める戦略に切り替える。
本来の自分に素直に。

努力している人が認められる形に。
スキルが高い人が評価される形に。
誰もが不快な感情を抱く事無くコミュニケーションをとれる形に。

仲間に何も与えようとせず
自分だけが受け取り続ければそれは居心地がいいだろう。
しかし、そんな組織なんて誰も求めていない。

嫌いな人と一緒に過ごす時間も求めてないだろう。

誰もが自分が認める大好きな人と一緒に遊びたい。
無駄のない濃いメンバーで遊びたい。
常に刺激があって飽きないことをやりたい。

そう願っているのではないか。

なおきちという人間は
今から考えると本当にどうしょうもないやつだった。
だから、自己中な人や嫌われてしまう人や
不器用な人の気持ちがすごくわかる。
自分自身がそうだったからね。

だからその人達の居場所を確保することを
最優先に考えてしまっていたように思う。

その犠牲として大好きな仲間もたくさん失ったし
優秀な人の離脱にも繋がった。

わかっていたけど
じゃあ、嫌われた人はどこへいくの?と思った。
ここにしか居場所がない人は
ここで嫌われたらもう後がない。
誰からも好かれる人は居場所なんてどこにでもある。
ここにいてほしいけど
俺は無意識のうちに嫌われ者をかばってきた。

しかし、当然だけど嫌われてしまう人には原因がある。
俺がどれだけ尽くしても最終的には
俺に文句を言っていなくなるメンバーも
少なくない。

それでも見返りを求めずにしたことだし
俺も完璧な人間ではないから
自分の非だけを考え反省しようと思ってきた。

恩着せがましいのは嫌だから。


そして俺はいつも人を人間的なレベルで
見てしまっていることに罪悪感を抱えていた。

自分でいうのもなんだけど、
このレベル分けは結構正確な自信がある。
関われば関わる程正確になる。

昔からこれは出来てたし
誰にでも出来るものだと思っていたけど
そうでもないと知ったのは割と最近。

もともとが狭く深くしか人と関われない人間だから
自分と合うか合わないかを察知する習慣が
ついてたんだろうね。

人の好き嫌いは激しい方だった。

自分に素直に生きてたときは
嫌いな人と仲良くする意味も一切わかんなかった。
人生において嫌いな人と関わる事以上に
無駄な事なんてないと思ってた。笑

大好きな人と関われればそれでいい。
そう思っていたし
今も心のどこかでその想いは消えていない。


俺はここ数年批判されることや
否定されることに恐怖を感じていた。

けど、乗り越えなければ
先は無いと思った。


組織の価値を高めることを決めた。
2014年はそこに尽力する。

優秀な人間は最優先で俺の近くにおく。
人間的に成長したり
スキルが高い人ももちろん評価していく。

そして成長出来る場や
各自が自分の好きな事を仕事に出来るように
していけるようなシステムも考える!

全ては俺が決める。

うん、俺が全て決める!!



最後に、

俺は人を偉そうに人間的なレベルでわけたりしてて
これから組織を最適化しようと思ってる、
俺は平等に扱いたいのだけど
この考えは差別かもしれないと思い悩んだとき

「本当の平等とはみんなを同じように扱うことではなくて
頑張った人や優秀な人は評価し
そうじゃない人にはそれなりの評価をくだす」

それが俺なりの平等だと思ったと信頼出来る人に言った。

そのときもらった言葉を。


「差別と区別は違うよ。」


ありがとう。
その通りだ。

2013年12月29日日曜日

揺るがない財産を築く。

今年(2013年)の半ばくらいからかな。
SNSの危うさを実感した。

SNSに限らず今あるものは
必ずいつか衰退していく。

そう考えた時に
じゃあ、確実性のあるものって
一体なんだ。
と考えた。


確実性のあるもの。。
それは「己」自身であったり
今、この手の届く範囲に存在するもの。
 
たくさんの物に囲まれて生活しているが
俺にとって武器となるものは
手の届く場所になにがあるんだ。


パソコン
冷蔵庫
プリンタ
テレビ
インターネット

自動車
お風呂
トイレ
キッチン
作業出来るスペース
寝るスペース
考え事が出来るスペース
ホワイトボード


いくつかあった。
所有という概念は幻想だと思っている。
いつか人間は死ぬ。
その時には必ず現世に譲らなければならないのだ。
だから借りても買っても
本質的にはそんなに違いは無い。
人間が勝手に決めた概念なので。


物じゃなければなんだろ。
考えた。

スキル
知識
人脈
データ
身体能力
内面的魅力
外見的魅力

そんなところだろう。

つまり、
大きくわけると自分自身と
自分の手の届く範囲のものとなる。


自分自身は磨いていくとして
インターネット上での出来事を
リアルに置き換えすぎるのは危ない。

紙切れなら燃やすか捨てるかしなければ
基本的には手元にずっとあるが
ネット上のデータは勝手に改変される可能性もあるし
一夜のうちに0になることだってある。


運良くここまで
大きなトラブルはないが
確実性のあることをしようと思った。

時代は変化していく。
それに対応する方法は
手元にある基盤を使い続けられるという前提だけだ。

SNSでは規約違反をすればアカウントは削除される。
例え理不尽な理由だとしても。

ブログサービスを提供している会社が潰れれば
何年も書き続けたブログデータは
0になってしまうかもしれない。


全て手元に残しておけ。
データとして。
自分のパソコンのハードディスクの中に
いれておけ。

そう思うようになって
必死でホームページの勉強をした。

簡単な事は出来るようになった。
自分の組織用のサーバも借りて
独自ドメインも取得した。


必要だと感じたらすぐに行動する事。
これが大切。

その気になれば一週間後でさえ
大きく変えられるだろう。


人や会社を信用出来ないのは
とてもさみしいことだと思うが
俺にとっては積み上げたデータが
全て0になってしまうことのほうが淋しい。

人をあてにしすぎて失敗しても
その人のせいにするわけにはいかないでしょ。
だったら、あらかじめ先回りして
フォローしておくのがいい。

どんな事態が起きても
最悪大丈夫なように。

2013年12月28日土曜日

セレクトしなければ価値はない。

雑貨屋さんに置き換えてみるとわかりやすいだろう。

なんでもありの雑貨屋さんってダサいと思ってる。
選んだりせずに安いから仕入れたものから
高級なものまであれば
高級な物の価値は下がりどうでもいいものに薄められてしまう。

お店の雰囲気から雑貨の価値は決まってると思います。

雑貨屋さんで働いたことがあるから言えるけど
おしゃれな雑貨屋さんって実は取り扱ってるものは
似ていたりする。

でも、どの店にあるかによって
それがおしゃれなのかどうなのかも
見え方が変わってきたりする。

その理由はやはりブランディングだろう。

このお店は明らかにおしゃれなお店だから
変な物は置かないだろう。。

そういう信用のもと雑貨を買う人もいます。

これは服屋さんも同じで
おしゃれなお店に奇抜なものを置いていても違和感ないけど
何十年も昔からあるおばちゃんしかいかないようなお店に
奇抜なものを置いてたら
これ誰が着るの?ってなるよね。

そう。
ブランディングが大事で
もっと言えばセレクトすることが大事。

それが信用に繋がり価値があがるのだ。


何を「良し」とし
何を「駄目」だと判断するか。

結局それはオーナーのセンスや価値観なんだよね。


セレクトショップなんかその典型で
オーナーがこれは間違いない!
これはすごく好きだ!
というものを取り揃えそのセンスに共感してくれた人が
お客様になる。

そういう場合、商品の値段はそこまで関係なくなる事が多い。

競合の世界での商売ではなくなるから。
その地域ではそこでしか売っていない物があれば
少々高くても気に入れば買うし
少量しかいれないなら仕入れコストも
値段におおいに反映させることになるだろう。

それでも「ありがとう。」と感謝してくれる
価値のわかる人というのはいるものだ。


何を選び
何を選ばないか。

セレクトするということは
批判されるということでもある。

センスなんて人それぞれだから
いいという人もいれば悪いという人もいる。

おしゃれだというひともいれば
ダサいという人もいる。

自分がこれは最高だ!
と声高に叫んでしまえば
「それはどうかな。。」
なんて否定をいれてくる人は必ずいる。

セレクトしなければ否定もない。

。。が、そこに価値もないんだよ。

完全に0。
何も生み出せやしないんだ。


人それぞれなのだから
自分が好きだからと言って
相手も同じように好きとは限らない。

自分が好きだと思う物を
嫌いだという人があらわれても
それでも人は人、自分は自分なのだと
思えるのであれば是非セレクトすることを
おすすめしたい。

そして人のセレクトしたものを批判する必要もない。
誰もが自分のセンスで選んだ物を
堂々と掲げられる時代であってほしいと思ってる。

そしてそんな時代の中で僕も
大胆にセレクトしていかなければならないと
今、強く思っている。

人間的レベルの階層。

あまりこういう事を口に出すのは
よくないと思い書く事も少ないのだけれど
ちょっと書いてみるか。


人間的なレベルについて考えた事はありますか?

子供
中学生
大人
年配の方。。

不良
大学生
主婦
社長。。

様々な年齢、性別、立場の人がいますよね。
でも、どの立ち位置だからレベルが高いとか低いとかって
ないと思います。

社長さんでも愚かな人はいますし
主婦でもしっかりとした考えの方はいらっしゃいます。


人間的なレベルには経験値が関わっている事が多い。

極端に人と関わってこなかった人や
嫌われている事を知りつつも改善してこなかった人等
問題から逃げてきた人は人間的なレベルが低い人が
多いような気がします。

人は悲しい事がたくさんあって優しくなります。
人の気持ちがわかるようになります。

思っていたより現実が厳しかったり
思っていたより優しくしてもらえたり。。

実際の社会で学ぶことは本当に多い。
しかし、それをしてこなかった人というのは
人との関わり方がわからなかったり
人の気持ちがわからなかったりします。

自分が正しいと思い込んでいる人も
経験値が足りてない人に多いですね。


人間的なレベルの低い人と高い人とでは
かみ合いません。

人間的なレベルが低い人は自分が得をしようと考え
レベルが高い人は人を得させようと考えます。

レベルが低い人はどうやってお金を使わずにすむかを考え
レベルが高い人はどうやって有意義に無駄なくお金を使うかを考えます。

価値観自体が全く違うのです。
レベルが低い人は歩み寄る姿勢も乏しいので本当に残念です。


この人間的なレベルの階層が違う人達を
同じ空間にとどめておくことは出来ません。

別々の次元を生きる人達だから。

レベルの低い人には成長の場所、
レベルの高い人には有意義な時間を過ごせる場所が
あるといいなと思いました。


レベルが低いというとまるで差別しているようですが
そういうつもりは一切無くて
誰だって経験値がないときには同じようにしていたはずなんです。
ちょっと成長が遅れているだけであって
経験値を高めれば上手になることも多いはず。

誰もが愛される人間であってほしい。
勝手ながらそう強く思います!


人間的なレベルに関してはいつも考えるので
僕ももっと向上したいと思い
本を読んでみたり行動してみたり
スキルアップをはかってみたりします。

実際、去年できなかった事が
今年出来た。。ということはよくあります。

目に見える成長は意識的に作れてるけど
目に見えない本質的な成長の方が
僕にとっては価値ある事なんです。

心の底から人を想い行動出来る人でありたい。

柔軟に相手のレベルに合わせて会話が出来る人でありたい。

何に対しても見下すことはないですが
このレベルという概念がないと
対等に話す事も出来ない。

自分の世界を狭める事になる。

みんな同じ対応ではダメなんですよね。

だからあえてこのレベルという話しを書いてみました。


世の中の事は目に見えないこと、
誰も教えてくれない事のほうが
大切なんですよね。

そういうことを意識してないと
いつの間にか誰かの都合のいいように
行動してしまうことになります。


人間的なレベル、もっともっとあげたいな。
出来る事なら一緒に成長していける仲間を増やしていきたい。
なかなかこういう真面目な話しをする機会ってないけど
僕はこういう話し好きなので
是非機会があれば語りましょう。

深い話し、好きです。

2013年12月26日木曜日

本当の不幸について。

時々こんな事を考えます。

本当に不幸なのはどういう事なのかと。

それを考える時に相対的に本当の幸福についても考えます。


昔はお金持ちの家の子供に生まれてたら
絶対幸せだったのに!なんて
考えていました。

だけど、大人になって色々な経験をしたり
色々な人を見ているうちに
どうも一概には言えない事に気付いたのです。


僕は何不自由なく育ててもらいました。
そのことに関して親に感謝しています。

ありあまるお小遣いというものはなかったので
自分で試行錯誤して作るようになりました。

お金のかからない遊びをしようという発想を持ちました。

お金をかけて遊べば簡単に遊べます。

しかし、お金をかけずに遊ぼうと思ったら
アイデアと工夫が必要です。

まず、誰かが用意してくれた遊びではなく
自分達で「遊び」自体を創り出したりします。笑

ルールを決めて改善していって
より楽しい遊びになるように。

そして無い物はダンボールや家にあるもので
作ったりして遊んでいました。

子供の時からブロックが大好きで
ブロックでモデリングして
ダンボールで作るみたいな感覚がありました。


今の子供はどうかわからないけど
あの当時子供だった僕にとってダンボールと
ガムテープとハサミとマジックさえあれば
なんでも作れるような気がしました。



ある日、冷蔵庫が家にきました。
その冷蔵庫の箱を見た時
目が輝いたのを今でも覚えています。

冷蔵庫の箱を切ったり貼ったりして
ベランダに秘密基地を作りました。

秘密基地と言っても
家族全員知っていますが。。笑

そして外からも丸見えですが
あの当時秘密基地にすごく憧れていたので。

ダンボールを切ったり貼ったりして作った
秘密基地の中は子供だった僕にとっては
とても広く自分だけの空間が嬉しかったです。

 しかし、ベランダに作った秘密基地は
大人の生活にとっては邪魔だったのか
数日で撤去することになりました。

すごくイヤだったのを覚えています。


クリスマスの時には
ケーキを食べました。

美味しかったし楽しかった。

でも、もっと食べれたらいいのになぁ。。

っていうのはいつも思っていました。




子供の時の渇望感というのは
大人になってからの行動に直結していると思います。

大人になったらケーキ1ホール全部1人で食べたい。。
本格的な秘密基地を作りたい。

そういう気持ちは今でも思い出す事が出来ます。


当時はうまくいかず思い通りに出来ず
大人が簡単に叶えてくれないことを恨んだりしました。

しかし、出来なかった事を自分の力で
やることが許されるようになってから
見事にクリエイティビティが最大化したように思います。



お金持ちじゃないからわからないけれど
もしも身の回りの事をしてくれる人がいたり
欲しい物が全て手に入っていたなら
物なんてどうでもいいと思っていたかもしれない。

怪獣のように我が侭に
オオカミのように走り回りながらすごした幼少時代が
あったからこそ無いものにフォーカスするよりも
欲しすぎて創り出してしまおう!という発想が生まれた。

あまりにも欲が強いとこうなるのだと自分で思った。

なんでも自分でやる習慣がつく。
何もないなら作ればいいという発想が身に付く。

それは大人になってはじめて気付いたけど
誰もが持っている物ではなくて
特別な才能なのだと。


何かが満たされていれば
同時に何かは退化していく。

逆に
何かが満たされなければ
何かは進化していくんだ。。



そして思った。
お金持ちだから偉いわけじゃない。
お金持ちの子供だからスキルが高いわけじゃない。

普通の家庭の子供の方がスキルが高いこともあるじゃないか。

お金持ちの有利なところは様々な経験をしているところ。
海外旅行や美味しい物を食べた経験があったりする。

これも思うんだけど、
もしかしたら求めてない時に海外旅行に行っても
あまり感動はないのかもしれない。

僕は学校の勉強って退屈で堪え難かった。
あれは求めても無いのに詰め込まれようとするから。
すごく不快だった。
どうしょうもなく。

でも、今の僕は誰も頼んでもいないのに
自分で本を買ったりネットで調べたりしながら
自分の興味がある事を勉強してる。
時には勉強する為に数万円支払う事だってある!!
しかも、先生とかに教えてもらう為ではなく
自分なりの実験や教材費に。

基本的に自分のペースでやりたいから
人に教えてもらうことは少ない。
ほぼ皆無。

ペースを乱されることは何よりも嫌いだから。
うんざりするのでね。



話しを戻します。

本当の不幸とは何か。

僕が思う本当の不幸とは
自分が幸福だと気付いていない人だと思います。

どんなことでも表と裏があり
メリットとデメリットがある。

同じ物でも光が当たってる部分だけを見れば
キレイに見えるし
影の部分を見れば黒いだけだ。

でも、同じ物であり見方、視点が違うだけ。

つまり、マイナスな面を見て悲しむ必要は無いってこと。
どんなこともプラスに置き換えられる。

そして言い訳をいつもしている人も本当に不幸。

自分に都合のいい言い訳をしている人を見ると
とても悲しくなる。

自身の深層心理にさえ気付いていないのか
「あえて」自分はそうしていると
熱弁する人もいるが
少し人間力が高い人から見れば
それは自分の心を守る為に
顕在意識がそう言わせているということに気付く。

他人でもそれを見破れるのに
本人は自分が本当にそう思っていると思い込んでいたりする。

とても残念。
そういう熱弁を聞くと人は離れていってしまう。
自分の心に素直に。



お金があるかどうかは
本当の幸せをはかる材料の一つとして
数える事が出来るかもしれないが
ただの材料の一つにしかすぎない。

それよりももっと大きな要素はたくさんある。

何が大きな要素となるかは
人それぞれだ。


本当の幸福を考える事によって
相対的に不幸が見えてくるし
不幸について考える事によって
幸福が見えてくる。

一般的な幸福論なんてどうでもよくて
それぞれの価値で考えたらいい。

幸福まで常識にしばられなければならないのか。

そんなことは絶対にない!


あなたはあなたらしく。
ダメなとこもあっていいよ。
上手く付き合っていくことが大切だ。

たくさんの人と関わり
ぶつかり、たくさんたくさん悲しい想いをして
角がとれていくんだよ。

そしてま〜るくま〜るくなったとき
人にぶつかっても優しくなれるようになるんだよ。

おそれずにさ、いこう。

上手に出来ないときもある。
恥ずかしい思いをしてしまうこともある。

でも、頑張ってる姿勢っていうのは
どれだけ不器用だろうが下手だろうが
とても美しいと思うんだ。

出来ない理由を並べてるとこなんて見たくないよ。
やる理由、出来る理由を見つけるんだよ。
ないなら強引にでも作るんだよ!

本当は格好わるいことこそカッコいいよ。

ダサい自分を見せれる人ってカッコいいしかわいらしい。



幸福はいつだって自分の中にある。
見るものではなく感じるものだからさ。

あなたの目の前にたくさんの不幸が押し寄せても
傷だらけになりボロボロになろうとも
もしかしたらその事によって最後の「カド」がとれて
幸福に転がりだすかもしれない。

誰にもらった出会いか。

誰しも周りに人がたくさんいると思うんです。

その出会いについて深く考えることはありますか??


僕は時々考えるんです。

考えた時に自分の行動だけで出会えた人なんて
本当は1人もいません。

職場で出会った人でさえ
その会社を作った人間がいなければ
出会う事もなかった。

自分の力で何かをやった。
なんてことは正直幻想だと思っています。


直接誰かを紹介してもらったら
いつも僕は出会いをくれたその人に
強く感謝します。

繋いでくれたことに。
友達には友達がいてその友達にもさらに友達がいるわけですが
思いの外横に繋がっていく事って大人になってから
少ないと思いませんか?

重要な出会いやチャンスは大体人が持ってきてくれるものです。
それは経験から本当にそう思うのです。

重要な人物に出会えたから
それでいい。
ではないですよね。

出会わせてくれた人にまず感謝です。














2013年12月22日日曜日

量は質に転換する。

自分の事はある程度わかってるつもりです。


職人ってのは
一つの事を実直にきわめていくひと。

僕の致命的な部分は一つのことを長期的に
ずっとやるのは無理な事。

短期的には時に信じられない程の集中力を
発揮する事はあります。

そのときは寝る事もご飯もお風呂も
全てどうでもよくて
それだけに集中していたいし
優先順位を1番にしたくなる。

でも、それはずっとではない。

これをある程度のレベルで長期的に行う事が出来、
他の事はそんなに興味ないって感じの人が
職人なんだと思う。


僕の場合はやりたいことも好きな事もたくさん。
故に様々な事をしたい。


短所を嘆くより視点を変えよう。

短所だと思えば短所だが
世の中の物事全ての事はプラスに変換する事が出来る!!

そういう思考をいつも意識しているので
とくにこの事に関しては悩んでいない。


一つの事をずっと出来ない。。
と考えるのではなく
様々な事を同時に出来る!!
興味が泉のように溢れ出す!!
自分に正直に生きる事が出来る!!

こんなふうに言い換えれば
力が湧いてくるのではないだろうか。


もう思考パターンはマイナスにふれないようになってるので
自然にこんなふうに考えるようになったので
逆に意識しないとマイナスが見えない。

それもどうかと思うけど。笑



話しを戻します。

そんな職人ではない僕が成功するには
一つの物のクォリティだけを上げ続ける事は
おそらく不可能。

だとしたら。。

量を集める。
圧倒的な量ってのは質に転換する。

通常個人が集める事が出来ないような数を
手に入れる事が出来れば
それは実績にもなるし使える数字に変化する。


テレビのCMとかそうだよね。
まあ、あれはクォリティも高いからちょっと違うんだろうけど。

鶏が先か卵が先かという話しで
クォリティが高いから数が集まったのか
数を集めたからクォリティを上げる事が出来たのか。

おそらくだけどそれはどちらからスタートでも
いいと思ってる。


 得意な方、好きな方で。

俺は何に対しても質より量って言ってきた。
性格的にそれが好きだっただけなんだけどさ。

でもそろそろ質にもこだわりを持てる場所を
自分で作っていいかもって思ってる。

今までのものは今までのものでやりながらね。


質にこだわりだしたら
ストイックになりそうでこわいんよね。

無意識になんでもあり、どうでもいいよっていう
感じを作り出してきた感じもしてる。

0か100しかないんよ。
人にまでうるさく言って嫌われながら
何かを作っていくっていうのは
本当に孤独でそれでも自分の信念を
たった1人になっても貫けるのか。。

いつも最悪の事態を考えながら行動している
自分の頭では答えがでなかったんだろうな。


直感で動くには無意識のうちに
最悪どうにかなるかどうかを計算出来てなければ
直感では動けない。

意識して考えるのも違う。
それは直感ではない。
圧倒的な経験の中から
過去の答えを感覚として呼び起こし
実行するのが直感で動くってことだと思ってる。

経験が少ない人間がこれをやると
的外れな事になる。
だからお勧めしない。

。。というのも、
自分自身が何回もそれを経験してるから
なんだけどね。笑


自分の経験が多いだなんて思わないけど
最初から何も行動してない人よりは
色々やってきたという自負はある。

上には上がいるし
自分はまだ底辺でしかないと思ってるけどさ。

直感って脳を自動化させることなんじゃないかと思ってる。


もっと感覚で答えを導きだせるようになりたい。



どんなものでもいい。
ネット上で繋がってる人の合計の数字を
10万にしたい。

基本的ななおきちの考えは
100人に1人くらいは行動してくれたり
リアクションしてくれたりするんじゃないかという
希望的推測からきてる。

もちろん、内容にもよるだろうけど。
コメントくれたり口コミしてくれたり
再生ボタンを押してくれたり。
なんでもいい、アクションを起こしてくれる人が
仮に100人に1人いるならば
1万人なら100人
10万人なら1000人。


現在Twitterのフォロワー数が12000人
Facebook友達・フォロワーで2100人
楽遊会・mixi友達で3500にん

googl+とかアメブロ、シンプログ、Facebookページ等
細々としたのを全て合わせても2万人いくかどうかというところ。
これを最低でもあと5倍以上にしたいと考えてるわけだ。

ソーシャルメディアの需要はこれからもっと拡大していく。
テレビやラジオ等マスメディアとは属性の違うメディアとして
重要な位置づけになる。

ローカルラジオ局、ローカルテレビ等くらいの
影響力でも持つ事が出来ればすごいよね。
ネットで数字を作る事が出来れば
リアルと融合していく事も出来るだろう。


数という物は
大きくなればなるほど
さらに大きくなろうとする感じがある。

難しいのは数字が小さい時期。
これをどうするかだよね。

そしてSNSを含むネット上のサービスは
新しい物が出来ては廃れていく。

その時古くなったサービスで作ったユーザーと
新しいサービスでどう効率よく繋がれるか。

ネットだけでもリアルだけでもデメリットがある。
どちらも効率よくまわしていければ
デメリットはカバー出来るんよな。


質や量が圧倒的に高い場合
そこに価値が発生する。

何をやりたいかっていうのも
すごく重要なんだけど
何で価値を提供出来るのか
自分自身と向き合う事で
見つける事が出来るんじゃないかな。

量を質に転換する。
これが俺のやるべきことだ!!

2013年12月21日土曜日

夜のお店の価値。

夜のお店って価値が凝縮してる感じがあるよな。

キレイな女性
カッコいい男性
豪華でわかりやすい店内

価値があるから時給も高い。
当然のことなんだよな。


普通に友達とお酒を飲むだけでは
あんなに支払う必要がない。

それは価値が低いのではなくて
等価交換してるからだと思う。

自分が価値を支払っていて
同じくらい受け取ってるから。


夜のお店で呑むには
お金があって良識があれば
基本的に誰でも行ける。

誰だって楽しい人や
見た目がいい人と呑んでみたい、会話してみたいでしょ。
全員がそうじゃないにしても世の中のほとんどの人は
そういう欲求を少なからず持ってる。

自分が美しいと思える人に話しを聞いてもらったり
優しくしてもらいたい。

美しく着飾った人と対等に話してみたい。


お金を支払えば叶う。
それがサービスなんよな。

価値をあげるために
厳しいルールがある。

そのラインを保つ事で
安定したクォリティを継続して提供出来る。

その分、キャストへの報酬も高い。

とてもフェアだと思う。



安く提供する事に目がいきがちな世の中だが
値段をおさえることに注力するのではなく
価値をあげることに注力したいものだ。

そのほうがよっぽど経済はまわるし
ゲーム理論で囚人のジレンマと呼ばれるものに
陥ることもなくなる。

囚人のジレンマとはこの場合
他店に対抗して値段を安くしていくこと。
そうすれば一時的に他店から客が流れてくるが
また他店も値段を落とし客を奪われる。

本来、全てのお店が価格対抗しなければ
全てのお店が利益を最大化させることが出来るはずなのに
自分の店だけ儲けようとする店が
どんどん値段を落としていきそれに対抗したお店が
価格競争に巻き込まれていくこと。

囚人のジレンマに陥らない為には
値段を安くする事を考えるのではなく
価値を高める事を考える事。

値段で勝負するのではなく
比較された時に価値でまさっていることが
大切になる。


価値が高いお店とはターゲットのお客様の満足度が高いサービスを
提供するお店のこと。

高い価値を提供する事に関しては
お店だけではなく
好かれる人間も必ず周囲の人に何らかの価値を
提供し続けている。

優しい
話しを聞いてくれる
自分を押し付けない
優先してくれる
信頼出来る

そういう人達は周りに価値を提供しているんだ。
だから好かれる。

逆に、
自分の話ししかしない
話しをさえぎる
自分の事しか考えてない
信頼出来ない
不快な気持ちになる
マイナスな発言が多い
等の人は価値を提供出来ないばかりか
関わると損をするというイメージを周囲が持つため
結果的に周りから人がいなくなる。

これは本人に悪気があろうがなかろうが
関係なく結果としてそうなってしまうため
最悪の場合本人は理由がわかっていないこともある。

こういうことを考える時
自分はどうだろう。。といつも考える。


周りに価値を提供出来る人でありたい。

2013年12月16日月曜日

人生を前に進めたければ「No!」と言え。

何をして
何をしないか。

何を好み
何を嫌うか。



どうも「オトナ」の世界ってやつは
はっきりしない人間を作るのが
うまいようで
例に漏れず僕もそのようになっていっています。


しかし、本に書いてました。
詳しい文言は覚えてないけれど
ノーを出した選択の方が実は大切なのだと。


ノーを突きつけるというのは
とても勇気がいる事です。

あんなにも我が侭だった自分は
別人のようにそう思います。

きっと、たくさんの物を手に入れすぎたのでしょう。


はじめから何も無かった。

今も本当は何も「所有」なんてしていない。

時々ね、掃除をしていてそんなふうに思う事はあるんです。


生まれてきてから死ぬまで
本当にずっと一緒にいてくれるのは
自分自身だけなんだ。
つまり、心と一緒にいてくれるのは体だけで
体と一緒にいてくれるのは心だけなんだな。

いつからかそんなさみしいことを思うようになったよ。
しかし、心が楽になった。


人に期待しすぎていた昔の自分に比べ
今は穏やかにいられるんだ。



やりたいことを明確にするのと同じくらい
やりたくないことを明確にするのも大切な事。

時間がない、お金がない、
今の仕事をやめれない、
スキルが無い、自分には何も無いんだ。。

そんなことを言っている人は
実は一生そんなことを言い続けて
やりたいことをやれないまま死んでいくのだと
聞きました。

去年と預金通帳の中身がそんなに変わっていなかったり
付き合ってる人間もさほど変わっていない人は
気をつけた方がいいと聞きました。


明日も今日と同じような日が来てくれるとは
限らない。

ノー!と言えるのも生きてるうちだけなんだよなぁ。

無茶苦茶でもいいから
自分らしく生きていきたいな。


あと、こんな話しも聞いた事があります。
成功するには誰よりも失敗して
誰よりもリスクをとれと。

その振り幅で成功するのだと。

確かにリスクもとれず失敗もせずに
どうやって成功するというのだろうと
僕も思います。

新しい事をはじめるとき
僕は思いつく限りの失敗をしてみることにしています。

というか、ギリギリのラインを知るには
失敗するしかないんです。

本当に大切な事はギリギリのラインにある。

ギリギリアウトを知らない事には
ギリギリセーフは見えない。

安全圏でみんなと同じ事してたら
一生そのままなんだよね。

今までたくさんお金も失ってきたし
色んな意味で怪我しました。

それでも攻めようと思うのは
失ったもの以上に経験という宝物を得る事が出来
そこに価値を感じているからです。

何かをある程度極めるということは
他にも応用が大体きくんです。

そして何かで築いた基盤ってのは
他にも応用したり流用したり出来る事も少なくありません。


一点集中。
ズバ抜けなきゃ!!


弱火で水をあたためてても
いつまでたっても沸騰しないでしょ。

これでもかってくらい強火であたためたなら
水は湯気になる。

状態が変わる。
そこまで持って行くには短期間で集中して
結果を出すからなんだよな。

ずっとじゃなくていい。
ピンポイントで「今!」ってときには
他のことをおろそかにしてでも
やらなきゃなんないことだってあるんだ。

臆する事無くいこう。
成功か失敗しかない。

最終的に信じられるものは
自分自身だよ。

2013年12月11日水曜日

自分の看板で勝負する。

よく、サラリーマン時代に
大きな結果を残し
これなら独立してもいける!!
と思って脱サラしたはいいけど
うまくいかない。。という話しを聞きます。

自分の力を過信し、
会社の看板で仕事している事に
気付かない人っていうのは思いのほか多いようです。

何かをしようと思った時まず難しいのが
信用と実績。

それがないとどこも取引してくれませんもんね。


これは脱サラした人だけの話しではなく
誰かの力で自分が結果を出させてもらっているのに
そのことにも気付かずにいる人をよく見かけます。

自分が作り上げた看板で実績を積み
信頼を得て勝負してこそ
はじめて実力といえるのだと思います。

誰かが長年かけて作った看板を使って
やっていくのは本当に簡単な事なんですよね。

一番大変な0を1にする作業、
そこから1を2にして2を3にして
一歩一歩確実にやってきたその過程も考えずに
いる人を見かけると心が悲しくなります。

その度自分への戒めの気持ちも同時に生まれます。
誰が自分と繋げてくれたのか。
誰が自分を大きくしてくれたのか。
誰がチャンスをくれたのか。
誰が認めてくれたのか。

考えた時にたくさんの顔が浮かびます。
僕はその人達なしでは絶対に今の基盤を
作り上げる事は出来なかったし
自分の力なんて小さいと思っています。


キーパーソンと繋げてくれた人は
本当に大切にするべきだなと思いました。

人脈なんて湧いて生まれるものではない。
本当に優れた人なんてすぐにすぐ存在する物ではない。
貴重な人材と出会わせてくれた人には
特に感謝だ。

本当にありがとう。
これからも謙虚な気持ちを忘れずにいよう。
そして看板を磨いていこう。

2013年12月9日月曜日

需要がないところには供給するな。

需要があるところに供給するというのは
基本的なことだと思いますが
もしかしたら同じくらい大切かもしれないと
感じた事があります。

それは
需要がないところには供給しない。
ということです。


その理由は明白。
欲してる情報ならばそれは宝となり
価値も最大化します。

しかし、求めてもいない情報を
相手に押し付けてしまうと
相手はうんざりしてしまうわけですね。

どれだけ高級なソファでも
欲していない人には無料でも必要ない、
ゴミそのものなのですね。

 極端に言えば
4畳半に住んでる人に
大きなソファをプレゼントしようとしても
喜ばれる可能性はきわめて低いということです。


価値は人それぞれ。
自分の価値は尊重するべきだと思います。
しかし、他の人の価値は同等かそれ以上に
大切にするべきだと思っています。

また、需要がないところに供給するという事は
本当に効率が悪いし何かを生み出す可能性が
きわめて低いですね。

自分がどうしたいか。
ではなく、
相手は何を望んでいるのか。
そのことに重きを置けないのならば
きっと成功はないでしょう。

なぜなら、
あなたがやりたいことや
あなただけが得する事に多くの人は
興味がないからです。

ほとんどの人が興味を持っているのは
自分が得をする事や自分がやりたいこと、
欲求が満たされることですね。

相手と自分の利害が一致していると思っても
よく考えてみて。

自分の利益を優先していないか。
押し付けがましくなっていないか。

もしそうなっているのならば
望んだ結果とは反対の結果を
見る事になるでしょう。

そしてもしも、
実際自分の利益を優先し
相手の心も考えず「押し付けて」しまっている、
その事にも気付けない程の人間的なレベルなら
あなたの周りからは理由もわからずに
人が離れていくことでしょう。

全ては結果として出る。
いいことも悪い事も。

短期的に成功する人はいても
長期的に見れば確率論と同じで
必ず一定の結果が出るようになっている。

2013年12月6日金曜日

人と関わるときの基本。

様々な人がいます。
価値観が合う人合わない人
好きな人嫌いな人
尊敬出来る人、出来ない人。

その判断基準は通常自分の価値観ですよね。


しかし、関わるか関わらないかを選べないときもあります。
学校、職場、コミュニティ等。

そんな時心を楽に保つ為の考え方。



相手に寄り添う事。



自分が相手を好きか嫌いかなんて関係なくて
相手の価値観を精一杯想像する。
相手の価値観になったつもりで話しを聞く。

自分の価値観のまま話しを聞いてしまうと
どうしても「え?」って思う事や
理解出来ないこともあるでしょう。

そんなとき人はストレスを抱えてしまいます。

しかし、相手の価値観を想像しながら
話しを聞く事が出来れば
自分の価値観とは違うけれど
この人の価値観を想像すると
この考えでも理解出来るな、
自分とは考え方は違うけれど
この人はこうなんだな。
と、心の落としどころを作る事が出来ます。

人によって正しい事・正しくない事は違います。
自分の価値観に相手や世界をあてはめようとするのではなく
相手の価値観に歩み寄りじゅうぶん理解する姿勢を示しましょう。

どんな時もまずは自分から。


優しく人と接する人から見える世界は
優しさに満ちあふれています。

攻撃的に人と接する人から見える世界は
人間不信に陥りそうな程苦しい物でしょう。

しかし、全ては自分からはじめてしまったことなのです。

水面に一滴の水を落としているのはいつもあなた自身です。
世界はその一滴から波紋を広げ
あなたが見える世界はその波紋そのものなのです。

優しさという色の水を一滴落としたならば
あなたから優しさという波紋が広がり
あなたの目にはいつもその光景がうつるでしょう。


あと、人と関わる時に過剰な期待もよくない。
自分が相手にしてあげたいと思って行動したことは
それはその場で終わり。
あとは忘れればいいのです。

しかし、人から受けた恩はずっと覚えていて
様々な形で一生を通して返し続けましょう。

人生のタイミングには波があるので
今すぐ返せなかったとしても
ずっと忘れず少しずつ返せばいい。

その精神姿勢は相手にも伝わるものです。


人と関わる時
自分の事ばかり考えてる人は嫌われます。

判断基準を相手の価値観にすることで
相手にとって居心地の良い存在になれることでしょう。

2013年12月4日水曜日

なぜ汚れるのか。それは周りに物があるからだ。

汚れる。

その原因を考えてる。

何故汚れるのか。。
それは物があるからだ。

もしも周りに何もなければ最低限しか汚れる事はない。

しかし時に人は大切な物をそこに置いておきたいが為に
自らの手を汚す。

。。なんて、部屋を掃除しながら考えてた。
シュールな話しだ。笑


もし部屋に物が最低限しかなければ
散らかり方も最低限だろう。
知恵を使い無駄なく生きる。
そういうのもありだなと思った。

しかし何故人間はこうも
一度手にしたものを手放すことが
難しいのだろう。

自らをそのゴミに投影しているのではないか。
そんなふうに思う。

捨てられたくないから捨てないのか。

今日も四角い部屋で日が沈む。