2014年3月22日土曜日

ありがとうが足りない人。

なおきちは昔ありがとうが足りない人でした。
もしかしたら今でもそうなのかもしれません。。

それでも昔に比べると何十倍もありがとうと思う事が多くなり
心の底から感じる事が多くなりました。

しかし、表現をするのは本当に今でも下手だと思います。
なんだかわざとらしくなってしまうのが嫌で
リアルな感じにしようと思うとなかなか。。

表現が下手でも行動で返せばいいやとか思うけど
それさえ出来ているのかどうなのか。。


ありがとうと素直に言えない人の気持ちはわかるんです。
なんだか恥ずかしいような難しいような。

ありがとうとあまり感じる事の無い人がいるのも知っているのです。

だからこそ人に何かをするときは
ありがとうの言葉や気持ちさえ返してくれなくてもいいや。
って思って、自分がやりたいからやるのだと
自分自身思ってたんです。

 人それぞれだから人に期待しすぎる事はないけど
この世の中ってもしかしたら
「ありがとう。」で成り立ってるんじゃないかと思ったんです。

人から強引にお金を受け取る事はしたくない。
お金を失いたくない。。と思いながら渡されるお金は
気持ちいいものではないですもんね。

ありがとう。と笑顔で渡されるお金っていうのは
こっちが申し訳なくなるくらいお互いが嬉しくて
気持ちがいいものですよね。

商品を買う時ありがとうと感じる事が出来る人って
素敵だと思うんです。

お金以上の価値を商品に感じてるっていうことだから。
なんかそういうのってかわいらしいし素敵だなって思います。

こんな高い値段で売りつけやがって。。
なんてお金を惜しく思いながら物を買う人より
個人的には、やはり感謝がある人の方がいいなって思うんです。

お金の主人になるのか
お金の奴隷になるのか。

感謝の気持ちというものがコントロールの鍵となる気がしました。


お金と感謝は直接は結びつきません。
感謝の気持ちをあらわすのにお金は必要ありません。
しかし、精神姿勢というものはなんとなく透けて見えるものです。
感謝の気持ちがある時積極的に協力したいと思ったり
何か力になれる事はないか。。と自主的に探したりするものです。
具体的に力になりたいと。

一方的にしてもらうだけで
何も出来ない自分が悔しい。。
なんて言葉を何度も聞きました。

感謝の気持ちが強い人って
自分がしてもらってばかりで相手に何も返せないという事を
真剣に悩んだりするみたいです。

そんな意識の高い人が周りにいてくれる事は
自分にとっての誇りですね。

口先だけではないというのが
やはり伝わってくるものなんですよね。

自分ももっともっと感謝 を感じれるレベルを高めていきたいなって
思いました。

お金、人脈、スキル等は
結局自分を誇示する為に持つ物ではなく
柔軟に感謝を具体的な形で返す為の
道具なのだと思っています。

たくさん感謝を返す為に
たくさんの魅力的な道具を揃え
必要な時に必要なだけ
貢献出来る自分になりたいと思いました。

2014年3月19日水曜日

察する。

空気が読めるとはどういうことなのか。。
ふと考えます。

何故空気が読める人と読めない人が存在するのか。。


空気が読めるということは「察する」事が出来る人だと
思いました。

相手にいわせるまでもなく気付く力。

非言語コミュニケーションの集大成。

それが空気を読むという事だと思いました。

おそらく経験に起因している部分は大きいと思います。
こういう状況ではこうした方がいい。。等、
一概に決めるのではなくそこにいるメンバーや性格、
価値観等総合的に考えて自分で判断する事。

一対一の場合は相手との今までのやりとり、
相手の言動、行動、表情等から
価値観を推測し相手が望んでいるであろう行動をとること。
その際確実性の無い判断なら極力リスクを避け
相手に不快な思いをさせないということに専念する。

もっと言えば
目の前の相手と似た人物と過去に関わっていたならば
その人はどういう性格でどんな価値観だったか
思い出し参考にする。


人間の価値観は千差万別。

「必ず」ということはない。
相手の気分によることもあるしどんなときも
一概には言えない。

だから、タイムリーに察し続ける事で
的確な判断に近づく事が出来る。


女性がコミュニケーション能力に長けていると言われるのは
この空気を読む力に特化した人が多いからだと思ってる。

女性の集団の中では、はみ出し物はいじめの対象になったり
協調性のない人間は嫌われる傾向にある。
もちろん、そうじゃない集団も存在すると思うが
個人的にはそう思っている。

出る杭は打たれるし誰が群れのトップなのか
瞬時に判断し従う者には平安が約束される。

常に弱肉強食。
力関係は推移する。
現在誰が力を持っているのか
属する人間は注意を払う。

また、女性はうわさ話が大好きだ。
こっちではあっちの悪口を言い
あっちではこっちの悪口をいう人も少なくない。

そんな世界で生きたならコミュニケーション能力を
磨くしか無くなる。

表情を読み
相手が何をすれば喜んでくれるのか
事前に察知し行動する。

そうすることで自身の身分が保たれる。


それが出来なければ
無視やいじめの対象になったりする。



まあ、これは学生さんに顕著に出る状態なんだけど
大人になってもこういう場面とは度々遭遇する。

相手が女性とは限らない。
ネチネチした男性上司や陰湿な同僚と
関わらないといけない場面も出てくるかもしれない。

そんな時どれだけ相手が悪くても
相手が悪いから。。 と言い訳してるだけでは
生き残れない。

言い訳せず行動し結果を残してきた人間は
やはり空気が読める人が多い。

洞察力にすぐれ相手が喜ぶポイントを
知っていたりする。


非言語でのコミュニケーションが
発達してる女性は面白いし人気がある。

仕事でも必要なスキルとなってくるので
認められる可能性も高くなる。


空気を読む力というのは一朝一夕で
確立出来るものではない。

豊富な経験と気が遠くなる程の時間考え悩んだ結果
生まれる事が多いように思う。


最近コミュニケーション能力が低い人や
空気が読めない人が増えているように思う。

まあ、俺も人の事言えないんだけど。笑


誰もが気持ち良くすごせるようになるには
距離感を大切にしお互いが譲り合い空気を読み合うことによって
無駄な争いもなくなる。

時にはぶつかることも大切だとは思うけど
細々とした事でいちいち不快にさせたりさせられたりするのは
誰も望んでいない事。

これからも「空気を読む」という事について考え
自分自身も気をつけ
見つけた気付きは共有しようと思う。

同じ速度で全速力で。

チーム、組織の事を考える時
いつも音楽のバンドをイメージする。

バンドってさ
誰か一人でも下手なやつがいたら
そのバンド自体のクォリティも
一番下手な人のところに
設定されてしまうんだよね。

だから誰とどんな音楽をやるかって
大切だと思ってる。

上手な人が揃ったバンドに所属出来ても
自分が一番下手だったら
そのバンドはそこまでのバンドなわけだ。

すごいバンドを見てるとさ
各自が全速力で走ってるように
俺には見える。

全力でなりふり構わず走ってるんだけど
同じメンバーと全く同じ速度なんだよね。

だからこそカッコいいんだ。

本当はここまで出来るけど
それやっちゃうと他のやつがついてこれない。。
なんて考えながらやってたら
そりゃ最高の力なんか出せないよな。

スキルが高いだけがバンドではないとは思ってる。
しかし、なんらかの個性は必要だし
個性的なメンバーをバックグラウンドで支える為にも
スキルは必要なんだよな。

全速力で疾走するようなバンドを見たいし
そんな組織を夢見ている。

2014年3月17日月曜日

偏る勇気。

思えば平均的に馬鹿にされないように
失敗しないように能力を伸ばしてきた気がする。

好きな事は時間を感じないくらい集中するから
ほっといても上達したんだ。

最低ラインを伸ばす努力というのは
とても単調だ。

人を傷つけてしまわないため、
自分の身を守るため
内面からちゃんとしようと思って
成長を続けてきた。

その結果、昔の自分とは
比べ物にならないくらい成長は
出来たと思う。

それはそれでいい事だとは思ってる。


しかし、同時に平均的な人間になったなぁ。。
という自覚もある。

思考をフラットにしてんだから
当然ではあるんだけどね。

ん〜。。もちろんね、それはそれでいいんよ。
自分が望んだ事だから。

でも最近どこか物足りなさを感じてるのも事実。

な〜んか、中途半端だなってさ。

内面の話しでいうと
もっともっと崇高な人って世の中にたくさんいると思うんだよね。

俺が逆立ちしたってたどり着けないような人。
どの世界にもいるじゃん。
神?天才?って人。

そういう人と勝負したいなら
毎日、一生の時間を使っていくしかない。

そもそも本当に好きなものじゃないと
そんなに時間を使う事すら難しい。


もうちょっと肩の力を抜いてみようかな。
何をやっても批判と賛同はあると思うんだよね。

もともと偏った人間だったから
それがコンプレックスで
なんか自分ちんちくりんだなって思って
直そう、改善しよう、努力しよう。。で
結果平均に近づいた。

ほら、お仕事とかでもさ
平均的になんでもこなせる人と、
ダメなとこもたくさんあるけど
この分野だけは安心して任せる事が出来るっていう人
どっちが重要?って聞かれたら後者だと思うんだよね。
平均的になんでもこなせる人も大切だと思うけど
そういう人だけでは平均的な結果しかだせないんだよな。

中にメチャクチャ偏ってるけど
こいつがいるからまわるんだよな。。っていうやつがいるから
組織全体の平均点はあがるんだと思う。

とくにリーダーや代表っていうのは
偏ってなければならないのかもしれないと
ちょっと最近思ってきた。

逆だと思ってた。
誰にでもフラットに接することが大切なんだと思ってたけど
ほら、社長とか代表とかリーダーって呼ばれる人って
個性的でちょっと変な人多いじゃん?笑

我が強い人も多いし。
だからこそ成立するし、
そうじゃないと難しいんだと思った。

尖ってれば尖ってる程いい。
偏ってれば偏ってる程いい。

その何をも恐れない鋭い感覚に
人々はついていくのかもしれないと思った。

文字通り刺さらなければ人は動かない。


一つに特化する。
なんでも出来ますよっていうのは
大した魅力ではない。
いくつ出来るかが大切なのではなく
どのレベルで出来るかが大切なんだ。

高いクォリティで出来る事が一つあれば
どれだけ偏った人間でも害がなければ
問題ないのかもしれない。

需要のある自分が出来る事を
伸ばしていく事が大切かな。

あとはやっぱキャラも大切なんよな。
キャラってはっきり個性が出てることだと思うんだよね。

個性って好き嫌いを明確化して
わかりやすい事が大切だと思ったんだよね。

嫌いな物を批判するという意味ではなく。
無駄な批判は絶対よくない。

自分が関わらないでいいものを明確にするという事が
大切なんよな。

嫌いな物をどうこうする為ではなく
好きな物に特化する為に明確化したほうがいいと感じた。


天才と同等の力を発揮するには
個人では難しくともチームで戦えば
いけることもあると思ってる。

チームを組織するには
まずは代表がどんな基準でどんな思考なのかが
とても大切。

それによって集まる人間、
残る人間が違ってくるのだから。

チーム自体が目的に特化する必要があるのだから
リーダーはその目的に誰より特化していれば
少々偏っていてもいいんじゃないかと感じた。

それを理由に努力を怠ろうとしているわけではなく
力の入れ方、配分を間違わないようにしないといけないと
感じたので残しておこう。

2014年3月15日土曜日

エーテルを探しに。

光を伝えるため
この世界を隙間なく
埋め尽くされていると信じられていた
エーテルという存在。

こういう過去の価値観みたいなものはとても好きだ。
今では廃れてしまっているが
当時の人達は本気でそうなのだと信じていた。

なんだかそんな時代がひどく愛しくなる。


僕はひねくれものなので
世界が捨てた価値観を愛する事もある。

概念が好きだからだ。

その中でもエーテルというものが好きだ。

この世界に光を伝え届ける為に
必要と思われていたもの。

隙間なくエーテルで満たされている世界。

何もないと思っていたすぐそこの景色は
本当は満たされていたのだと
初めて知った人々は
どんな気持ちになっただろう。

その瞬間の事を時々考える。

僕が知り得るはずもない瞬間の事を。


なんだかとても愛しく感じる。

子供は窓の外を眺め
大人は仕事の合間に町並みを眺めている。

そんな架空の世界を思い描いては
わくわくする。

実際には子供がそんな概念に興味を持つ事は
稀だろうし大人もそれどころではないとは思う。

けど、そんなことはどうでもよくて
自分の中のパラレルワールドは
いつもそんな感性を持った人達が
登場するのだ。


現実の世界は時に厳しく難しい。
しかし、それが楽しくもある。
何故なら全ては自分の力で変化させる事が
出来るからだ。

勝手に想像する世界とはまた違った楽しさがある。


僕が写真を撮るのは
ファインダーの向こう側に時々
イメージする世界を見る事が出来るからだ。

肉眼では到底見る事の出来ない世界。

コントラストもデタラメで
光だって丸くなったりするんだよ?

すごいすごい。

向こう側の世界を覗くのに
高いカメラは必要ない。

しかし、どんな世界を覗きたいかによって
カメラやレンズは違ってくるな。

僕が勝手に持つイメージの世界と同様に
現在は写真も我が侭に加工してしまう事が
出来るよね。

何が正しくて何が間違ってるなんてないんだ。
好きにやればいい。

いつか、ファインダーの向こうに
エーテルを捕まえたい。

満たしてる物だから
捕まえるって少し違うのかもしれないけれど
そんなふうに思う。

どこにもない世界は
案外いつも目の前にあるのかもしれない。
この世界を満たすエーテルのように。

2014年3月2日日曜日

続・我が道を行く。

ここ数日間映像を編集し続けて我が道を行くということを
少し思い出した。

昔の映像の自分の喋り方とか
立ち振る舞いとかマジでイライラするんだけど!笑

でも大切なのはそれでも人が
集まってくれていたということなんだよね。


全ての人を大切にしたいといつの頃からか
考えるようになってた。

けど実際はさ、
こっちを立てればあちらが立たず。。ということになるわけ。

全員と仲良くする事ってまず無理なんだなというのが
ここ数年の答え。

だったら結局好きな人達とワイワイするしかないでしょ!◎

合わない人も合う人も
極力同じように接してきたつもり。

それがいいことだと思っていたから。

でもな、それ多分違うな、こりゃ。

俺が相手を尊重しているのは
俺の心の中での話しだし
それが相手に伝わっているとは限らない。

どれだけ相手を大切にしても
俺に失望する人もおるじゃろうしね。

相手が俺に過剰な期待をしてしまうのも
結局は俺がフラットに接してるから
なのかもしれない。


本当は俺はすごく自己中心的な人間なわけなんだけど
表面上だけではなく根本から変わり
人間的に尊敬されるような人になろうと思い
行動してきたんよね。

たくさん本を読んだり
実際にたくさんの人と会いコミュニケーションをとってきた。

ここ数年、どんどん考え方はフラットに
なっていったように思う。

でもちょっと待てよと。

フラットに考えるってことは
結局平べったく考えるということなのか?

平均的に人を見て
平均的に人と接する事なのか?

もともと差別はしない方。
偏見は少なからずあるだろう。
でも、理由も無くっていうのはない。

自分が気に入ってる人と
そうじゃない人で態度が違うのは
当然の事だし
会う頻度が違うのも当然なことだろう。

親友と知人で会いたいと思う頻度が同じな人は
そういないはず。


しかし、ここ数年
一部の人間と個人的に遊ぶということは
楽遊会の他のメンバーから
「なんで誘ってくれんの?」
って言われそうで控えてた部分もある。

でもそんなことしてたら
俺は一生友達なんて出来ないよね。笑


なんかね〜、
無意識のうちに自分を閉じ込めて
自分が不幸になってもいいから
周りを輝かせたいと
思っていたように思う。

何回も書いた事あると思うけど
結局楽遊会って
俺が人から理解されなくとも
好きな事をやる場所だったんだよね、
はじめは。

それなのにたくさん人が集まってくれだしたら
離れていってほしくないからって
媚び売ってたような気がする。

楽遊会の最初のほうなんてメチャクチャだった。
それでも個性的な人達が支えてくれてた。

俺が当たり障りのないような事を
言い出せばそりゃあ、離れていっても
しょうがないと思うし、
俺も俺でこうだと思ったら
誰のいうことも聞かない。


結局なにしてんだよって思う時もある。
俺が目立ってなんぼだろうが!って。笑

人に中心譲ってんじゃね〜よって。


なんかすごくバカバカしく思えてね。

今、このタイミングで
過去の映像を編集したりしてるのも
きっとこういう気付きをこのタイミングで
知るためだったんだ。


そして過去のメンバー、雰囲気を見てやはり思った。
俺は欠陥があろうが批判されようが
俺でなければならないのだと。

少なくとも楽遊会の中ではね。笑

もともと刺激の強い事が好きだから
今の時代でやりたいことやると
危ないかもしれんけど。笑


でも、突き抜ければきっと
笑ってくれる人も出てくるかな。
中途半端が一番いけんわ。


ちょっと、フラットな自分を
もう一度封印してみようか。。なんて思ってる。

そんなこと出来るのかどうなのかわかんないけど
そうしてみたいなって。

個人的な価値観で善し悪し
好き嫌いを選んだらどうなるんだろうって。

心の奥底にフラットな考えは
染み付いてる。

さっきも書いたけどもともと偏見とか
差別ってのはないほうなんよ。

ホームレスも同性愛も障害者もオッケー!
ただ、そのぶん人間性は見るよ!

全ては内面よ。
関わるかどうかはね。

外見が美しい人は大好き!
でも内面が腐ってたら消えろよって思う。

一緒におって不快になるわな。
 表面だけ取り繕ってるのが
バレバレな人も笑えない。


楽遊会はもともと独裁国家なんだよね。笑
だから成立してた部分が大きい。
俺がいいって言ってんだからいいんだよ!
で、やってた。

だから常識とかが入る余地がなくて
よかったんだよ。

常識とかけ離れた判断をするとね、
それはすぐ批判に繋がる。
そのことも知ってる。
だからいつからか守りに入ってたんかな。

常識的な組織なんてそこらじゅうに
いくらでもあるわ。

俺がやらんでもええよな、そんなこと。


ロケット花火で服を焦がすくらい
体はってるメンバーに
下ネタを絡ませながら大笑いする
最低で最高なのが楽遊会だったよな。笑

大人になりきれない大人が
夜な夜な集まって
どうしょうもない話しを一晩中する
そういうのが楽遊会だった。


ちょっと健全すぎるかもしれんね、最近は。


もともと俺自体社会不適合者みたいな人間なんだからさ
愛想笑いじゃ何も生み出せないんだよ。
誰の居場所も生み出せない。
自分のさえね。


俺は俺らしくあることが仕事だと考えよう。
自分の行動を制限するのが自分の組織だとしたら
それはただの不幸だ。

なんのためにやってんだよ。
腹から笑えるようなことするためだろ?

仲良しごっこするためじゃないだろ。
崇高な目的もいいけど
目の前のメンバーと楽しめなくて
何が社会貢献だよ!
ってね。笑

じぶんじしんにそう思うわ。笑


自己中心的にいこう!!笑
なかなか見ない宣言だよね。笑

何事も長所であり短所であるなら
振り切るまでやる!
そしたら何か見えてくるんじゃないかな。

平均的な事やってれば批判もないだろ。
でもさ、そんなことに意味なんてないんだよ。
ただいたずらに時間を浪費してさ。
無難な人を集めてなんになるっていうんだよ。

風俗嬢歓迎!
キャバ嬢歓迎!
同性愛者歓迎!
めんどくさい男お断り!
ネチネチしてる人お断り!
恩知らずお断り!
でええじゃん。笑

リスカしてようがどうしようが
そんなことは関係ない。
面白い人間ならそれでよし!だろ。

俺がええって言ってんだからいいんだよ◎

それでついてこれない人はついてこれなくていいです!と。


組織ってそういうもんだよね。
ちょっと極端ではあるけど
方針や理念に疑問を持ったり
ついていけないと思ったなら
組織を批判するのではなく
自分が去ればいいだけのこと。

ちょっと幅広く受け入れすぎたのかもしれない。
俺と価値観が合わない人を大量にいれても
俺についてきてくれるメンバーが
不快になるだけなんだよな。

様々な価値観が入り乱れると
マイナスな価値観が残っていく。

誰か一人でも大嫌いなメンバーがいれば
組織から大切なメンバーが去っていくということも
よくわかった。

だからこそ無駄にメンバーが多いのって
リスクも高くなるってことなんだよな。

組織の方針の段階で
ある程度ふるいにかけておかないと
大変なことになる。

あと、恋愛するのは自由だけど
男のせいで女性メンバーが
いなくなるのは防ぎたい。

積極的に女性メンバーの位置づけは
守っていかんとね〜。
俺が必要だと思えば女性を優先にすることも
出てくるだろうね。
当然だけど。


今年から方針を変えよう変えようと
思ってたけどなかなか動き出せなかった。

けど、それは色んなバランスを考えてのことだった。
以前、楽遊会は第二世代から第三世代に
変わります!みたいなことを言って
常連さんに「おい!」っていわれたことがあった!笑

でもそれくらい自分の中で
ガラッと勢いつけないと
出来ない事も正直あるんだよね。


俺が保守的ってどうなん。
絶対ありえんだろ!笑

常に革新的でないと楽遊会無理だわ。
かなり偏ってもいいからやろう。

映像って偉大だな。
写真ではその頃の会話とかは
残らない。

雰囲気だけ残すからいいという考えもあるだろうけど
俺は違うな。

音声も会話の内容も残ってるほうがいい!
しかし、編集はしないとダメだね。笑

面白くないとこはカットしないと!笑
また、それが出来るから映像はいいね◎

まさに思い出は美しく!!◎

楽しく美しく残るなら最高じゃん♪

数年後に編集した物を
みんなで見たり出来たらええよな。

オフ会の映像だけで30個くらいは
残ってた!
これは財産だな。

その他プライベートでメンバーと
遊びに行ったり
弾き語りメインの頃の仲間とかも
残ってたり。

その時の声、会話、雰囲気
そのまま残ってる。
もう二度と同じようには戻れない
前の家の映像とかもな、あるんよな。

2004年の映像があるということは
10年前から俺はずっと映像の可能性を
大切にしてきた。
手元に見つからないからあれだけど
2004年より前にも
ビデオカメラ使ってた記憶があるから
実際にはもうちょっと前からか。

意識してなければ10年前の映像なんて絶対残ってない。
逆にこれから10年経ったときに
現在の映像が残るかどうかは今の自分にかかってるんよね。

うん、間違ってなかった。
これからも我が道をいこう。
結局正しかったかそうじゃなかったかなんて
やってみないとわかんないんだから。笑

だとしたら保守的になって
縮こまってるより
100回失敗して
1回大成功したらええよな◎

世界にはもう数えきれないくらい人間がおる。
思っただけの人間を集められないなら
それは確実に自分が至らないせいだ。

街に出ればいくらでも人はいるわけだし
その人達の財布の中にはお金もある。
だからビジネスがうまくいかないっていうのも
ただの言い訳にしかならないんだよね。笑

人の心が動くか動かないか。
動かせるか動かせないか。
そこだよね。

全力でやっても動かせるかわかんないのに
自分という人間の持てる力を総動員させないと
無理だろ。

だとしたら、長所とか短所とか
なりふり構ってる場合じゃない。

圧倒的な長所(メリット)を
ニッチな価値観のもちぬしにでも
感じてもらえればそれは強いわな。

常識にとらわれてる人とか
細かい事を気にする人は俺は無理だから
そういう人に関わらずにいこう。

それが相手の為でもある。

どうしても関わらなければならない場合は
こちらが譲ろう。
相手を不快にさせたくはないし
自分が正しいなんて思ってはいないから。


人間なんて
何が正しくて正しくないなんて
本来ないよ。

だからこそ再び、引き続き、
我が道をいこうと思う。