決めた!
2014年は好き嫌いをハッキリさせよう!
基本的に人は人で自分は自分だと思っているので
価値観を押し付けるような事をするのは
好きではないし押し付けられるのも好きではない。
だからこそ物事を自分の視点だけではなく
極力フラットに見て判断する事は
得意だと考えている。
つまり、自分の長所だ。
その反面、自分の考えを人に伝える事は
少し苦手だ。
批判の対象になる種を自分で撒く事になりかねない。
基本的にどれだけ話し合っても
自分の中での答えは話し合う前から出してるので
気が変わる事はほぼ皆無。
だから話し合って相手の価値観は理解出来るが
それでも自分は自分、その人はその人の考え
どちらも大切にしたらいいという結果に落ち着くので
相手の考えを聞くという意味ではいいのだが
受け入れこっちが改善しないといけないと
押し付けてくる人は苦手なのだ。
人生は自分が使える時間を自由に使って行える
極小規模の社会実験だと考えている。
自分の価値観をコントロールし
行動をコントロールすることによって
社会実験を行いその結果を人生の教訓として学ぶ。
これが楽しいんだ。
数年前、人からの批判が恐くなった僕は
無意識のうちに今までよりもっともっとフラットに
物事を考え発言するようになった。
多角的に誰が聞いても批判なんて出にくいだろうということしか
語らなくなったような気がする。
抽象的な発言はするが具体的なことをいうと
どこかで角が立ったりしそうで恐かったのだと思う。
しかし、今年は好き嫌いをハッキリ書いたりしてみようと思う。
僕はあまり頭がよくないので
どれだけ人に止められても否定されても
自分で行動してその結果をこの目で見ない限りは
納得が出来ない。
だからもしかしたら好き嫌いをハッキリ発言する事によって
来年の今日、とても後悔しているかもしれない。
そんな可能性があろうとも僕はこの1人社会実験を
やってみたいと思ったのだ。
その理由はある。
批判や誤解を恐れて書く文章には
説得力がかけると思うのだ。
万人に響く言葉というのは
万人を傷つけないものではなく
万人の感情を動かす物だと思うのだ。
誰かは強く賛同し
誰かは強く否定する。
それが大切なのかもしれない。
批判も賛同もない言葉を
インターネットで書く意味なんて
皆無に等しい。
そんなものは存在しないも同じなのだ。
感情を動かさない言葉に
魅力なんて無い。
立場がどうとかもあるだろう。
でも、どうこう言われる立場の人間が
意思を示さないのも
よくないのではないか。
ついてくるものはついてくるだろう。
離れる人は離れるだろう。
それでも例え誰に理解されなくとも
俺は俺なのだ、こう考えるのだと
発する事によって
なおきちという人間らしさを
見てもらえるかもしれない。
失敗しても成功しても
周りから見てる人間は安全だ。
昔は自分に合う人しか周りにいなかったような気がする。
もともと人見知りなのもあるけど
おそらく好き勝手発言してたからだったのかもしれない。
もちろん何かを否定をしたいわけではない。
なおきち個人の主観として
物事を語ってもいいのではないか。と
考えるようになったのだ。
このなおきちずむ。というブログも
価値観の話しを主に書いてはいるが
賛否両論あることも含まれる。
だけど、賛同してくれる人も実は多い。
会う度になおきちずむ。いつも楽しみにしてますと
言ってくれる人もいる。
自分を振り返る機会になりましたと
言ってくれる人もいる。
失敗出来ないような人間は成功なんて絶対出来ない。
同じように、敵を作る事を恐れている人間に
味方なんて出来ないと思ったんだ。
敵を作る事は本当に嫌い。
基本的に誰かを強く嫌う事は
僕の場合極端に少ないので。
それなのに相手にすごく嫌われ敵だと思われるのは
なんだかなぁ。。と。
敵を無理に作る必要はないんだよな。
でも、敵が出来てしまうことを恐れて
思っている事を口にも出せないのであれば
なおきちという人間は死んでるも同然なんだよな。
人間に戻ろう。
格好わるいところも時には見せよう。
っていうか、カッコつけてるとこが
格好わるいなとよく自分に思う。笑
なにかっこつけてんだよってさ。
ダセ〜な、自分って。
あれは好き、これは嫌い。
ということを書いてこ。
積極的に。
もしかしたらそんなことをしても
なんの意味もないのかもしれない。
でも、なんかやってみたいんよね。
そんな気分。
正月からなんか変な直感がわいたので
残しておきます。
2014年1月2日木曜日
2013年12月30日月曜日
「無料」の価値。
無料というものには
無限の価値があると同時に0でもある。
全く不思議なものだ。
最近良く思う。
価値はそこに存在するその時点で
一定の本質的な価値がある。
同時に、人間の世界において
価値を定めているのは人間だ。
だから、人間目線の価値で判断する。
本来の価値と人間が定める価値には
ズレがある。
地球全体で考えれば
自然は最大限大切にするべきなのは
誰だってわかるはずだ。
しかし、人間の価値においては
さほど高くない。
必要なのもわかってる。
でも、有り余っているから価値が「低い」と
されているのが現状だ。
話しを戻そう。
無料。
僕自身少し前までその言葉に弱かった。
しかしここ数年、ありがたいことに本当に良い物に
触れる機会にも恵まれた。
触れてみて初めてわかるその差。
物だけではない。
人間もそうだ。
人間を価値ではかるなんてナンセンスかもしれないが
はからずとも感じてしまうようになった。
あくまで主観の話しなので
他の人が同じだとは限らないし
価値観はそれぞれだから感じ方もそれぞれで当然。
それぞれ違うと良く思う。
だからこそ自分の考えを言わなくなった。
無駄に論争することも好きではないし
論破することに興味が無くなったからだ。
究極の争いのいきつくところは
平行線だと悟ったからだ。
価値観の違いをただすということは
自分の過去を否定するか
相手の過去を否定する事に
繋がるような気がしている。
そんなことまでして
自分が正しいなんて言い張りたくない。
それに、自分が全てにおいて
正しいなんて思っていない。
無料というものの価値。
それはまさに価値観の違いで
魅力的にも価値が0にも思える。
無料で喜ぶ人は
金銭的に少なからず枯渇感を抱えながら
生きている人と言えるのではないか。
もしくはお金に対して劣等感を持っていたり
罪悪感を持っている人達。
無料の魅力は
金銭のやりとりがないということ。
無料とうたうからには
何かを提供します、でも、お金は頂きません。
という場合がほとんどだと思う。
僕は今までお金に対する罪悪感と劣等感から
無料でなんでもすることがいいことだと思っていた。
誰彼構わず提供してお金を頂かない事が
美徳のように感じていた。
しかし、最近思います。
俺はお金がない人にとっては確かに
少しの価値は提供出来たのかもしれない。
でも、お金を持っている人に対して
それでは価値を提供出来ていないのではないか。
お金を持っている人達というのは
価値があるなら少々高くても喜んでお金を支払う。
求めているものを早く、上質な物を確実に提供する。
求めているのは無料や値引きなんて言葉ではなくて
最大限のクォリティなんだよね。
むしろ、そこしかいらない。
僕はずっと自分自身のお金がない痛みを
人に重ね合わせて癒そうとしていたのかもしれない。
一環して言い続けた「見返りを求めず提供する」ということ
もうじゅうぶん証明出来たかな。
行動で示したかったんよ。
こんな人間もいるんだと。
ここからは価値の提供に力を入れていきたいんだ。
こんなことを思い出した。
フリーマーケットでハンドメイドを売ってた時
おばさんが値切ってくるんだよね。
僕はおばさんが気に入ってくれたのなら。。
と応じたのだけれど
おばさんからしてみれば安く買えればそれでよかったんだよね。
そして値切るということは
その商品にそれだけの価値はないと言い放ってるも同じ。
大量生産したものを流通を通して量販店で販売しているものなら
まあまあ。。と思うけど、
一対一でハンドメイドのものを値切る人って
ちょっと変わってるよね。
自分が得すればそれでいい。
僕の今の行動はそんな考えの人を引き寄せてるように思えた。
なおきちを利用して自分が得すればいい、
口には出さなくとも本人も意識しなくとも
無意識の段階でそんなことを思っているから
行動にでてしまう。
それでもかまわないと思っていた。
別に腹もたたない。
人間なんてそんなものってどこかで思っているから。
だから見返りを求めてないと公言出来るのだと思う。
とてもさみしい人間なのだろうなぁと自分自身思う。
でも、同時にそんな人ばかりじゃないことも知ってる。
どうしょうもなく優しくてあたたかい人もいる。
俺を利用しても利用した分返そうとする人もいる。
口には出さないけどそういうのはちゃんとわかる。
いいことはみんなのおかげ、
悪い事は俺のせい。
それは心のそこからそう思う。
何事も言い訳なんてしない!
全ての原因は自分自身なんだ。
どんなときも。
少し前にフリー戦略というのが流行った。
これはすごいと正直思ったし
これは本質に近いと思った。
インターネットやデジタルを使えば
この戦略は最強かもしれない。
だからこそ、無料というのは
これから恐ろしい物になる。
何かを受け取るということは
同時に何かを失っている可能性が
非常に高い時代がくる。
無料で受け取った便利な物が
人生を狂わす。
それはもうこの世の中では起きている。
全てはちゃんと理解して納得したうえでやること。
受け取る物と差し出すものを
自分の価値観で考えて差し引き納得出来るなら
受け取ればいい。
仕組みの裏側になにがあるのか。
それを考えないと恐い時代になる。
2014年は自分の価値観でいくと決めてる。
何が起きようとも。
人が離れる事もあるだろう。
しかし、その事によって新しい風が吹くだろう。
俺から切る事はかなり少ない。
価値を高める戦略に切り替える。
本来の自分に素直に。
努力している人が認められる形に。
スキルが高い人が評価される形に。
誰もが不快な感情を抱く事無くコミュニケーションをとれる形に。
仲間に何も与えようとせず
自分だけが受け取り続ければそれは居心地がいいだろう。
しかし、そんな組織なんて誰も求めていない。
嫌いな人と一緒に過ごす時間も求めてないだろう。
誰もが自分が認める大好きな人と一緒に遊びたい。
無駄のない濃いメンバーで遊びたい。
常に刺激があって飽きないことをやりたい。
そう願っているのではないか。
なおきちという人間は
今から考えると本当にどうしょうもないやつだった。
だから、自己中な人や嫌われてしまう人や
不器用な人の気持ちがすごくわかる。
自分自身がそうだったからね。
だからその人達の居場所を確保することを
最優先に考えてしまっていたように思う。
その犠牲として大好きな仲間もたくさん失ったし
優秀な人の離脱にも繋がった。
わかっていたけど
じゃあ、嫌われた人はどこへいくの?と思った。
ここにしか居場所がない人は
ここで嫌われたらもう後がない。
誰からも好かれる人は居場所なんてどこにでもある。
ここにいてほしいけど
俺は無意識のうちに嫌われ者をかばってきた。
しかし、当然だけど嫌われてしまう人には原因がある。
俺がどれだけ尽くしても最終的には
俺に文句を言っていなくなるメンバーも
少なくない。
それでも見返りを求めずにしたことだし
俺も完璧な人間ではないから
自分の非だけを考え反省しようと思ってきた。
恩着せがましいのは嫌だから。
そして俺はいつも人を人間的なレベルで
見てしまっていることに罪悪感を抱えていた。
自分でいうのもなんだけど、
このレベル分けは結構正確な自信がある。
関われば関わる程正確になる。
昔からこれは出来てたし
誰にでも出来るものだと思っていたけど
そうでもないと知ったのは割と最近。
もともとが狭く深くしか人と関われない人間だから
自分と合うか合わないかを察知する習慣が
ついてたんだろうね。
人の好き嫌いは激しい方だった。
自分に素直に生きてたときは
嫌いな人と仲良くする意味も一切わかんなかった。
人生において嫌いな人と関わる事以上に
無駄な事なんてないと思ってた。笑
大好きな人と関われればそれでいい。
そう思っていたし
今も心のどこかでその想いは消えていない。
俺はここ数年批判されることや
否定されることに恐怖を感じていた。
けど、乗り越えなければ
先は無いと思った。
組織の価値を高めることを決めた。
2014年はそこに尽力する。
優秀な人間は最優先で俺の近くにおく。
人間的に成長したり
スキルが高い人ももちろん評価していく。
そして成長出来る場や
各自が自分の好きな事を仕事に出来るように
していけるようなシステムも考える!
全ては俺が決める。
うん、俺が全て決める!!
最後に、
俺は人を偉そうに人間的なレベルでわけたりしてて
これから組織を最適化しようと思ってる、
俺は平等に扱いたいのだけど
この考えは差別かもしれないと思い悩んだとき
「本当の平等とはみんなを同じように扱うことではなくて
頑張った人や優秀な人は評価し
そうじゃない人にはそれなりの評価をくだす」
それが俺なりの平等だと思ったと信頼出来る人に言った。
そのときもらった言葉を。
「差別と区別は違うよ。」
ありがとう。
その通りだ。
無限の価値があると同時に0でもある。
全く不思議なものだ。
最近良く思う。
価値はそこに存在するその時点で
一定の本質的な価値がある。
同時に、人間の世界において
価値を定めているのは人間だ。
だから、人間目線の価値で判断する。
本来の価値と人間が定める価値には
ズレがある。
地球全体で考えれば
自然は最大限大切にするべきなのは
誰だってわかるはずだ。
しかし、人間の価値においては
さほど高くない。
必要なのもわかってる。
でも、有り余っているから価値が「低い」と
されているのが現状だ。
話しを戻そう。
無料。
僕自身少し前までその言葉に弱かった。
しかしここ数年、ありがたいことに本当に良い物に
触れる機会にも恵まれた。
触れてみて初めてわかるその差。
物だけではない。
人間もそうだ。
人間を価値ではかるなんてナンセンスかもしれないが
はからずとも感じてしまうようになった。
あくまで主観の話しなので
他の人が同じだとは限らないし
価値観はそれぞれだから感じ方もそれぞれで当然。
それぞれ違うと良く思う。
だからこそ自分の考えを言わなくなった。
無駄に論争することも好きではないし
論破することに興味が無くなったからだ。
究極の争いのいきつくところは
平行線だと悟ったからだ。
価値観の違いをただすということは
自分の過去を否定するか
相手の過去を否定する事に
繋がるような気がしている。
そんなことまでして
自分が正しいなんて言い張りたくない。
それに、自分が全てにおいて
正しいなんて思っていない。
無料というものの価値。
それはまさに価値観の違いで
魅力的にも価値が0にも思える。
無料で喜ぶ人は
金銭的に少なからず枯渇感を抱えながら
生きている人と言えるのではないか。
もしくはお金に対して劣等感を持っていたり
罪悪感を持っている人達。
無料の魅力は
金銭のやりとりがないということ。
無料とうたうからには
何かを提供します、でも、お金は頂きません。
という場合がほとんどだと思う。
僕は今までお金に対する罪悪感と劣等感から
無料でなんでもすることがいいことだと思っていた。
誰彼構わず提供してお金を頂かない事が
美徳のように感じていた。
しかし、最近思います。
俺はお金がない人にとっては確かに
少しの価値は提供出来たのかもしれない。
でも、お金を持っている人に対して
それでは価値を提供出来ていないのではないか。
お金を持っている人達というのは
価値があるなら少々高くても喜んでお金を支払う。
求めているものを早く、上質な物を確実に提供する。
求めているのは無料や値引きなんて言葉ではなくて
最大限のクォリティなんだよね。
むしろ、そこしかいらない。
僕はずっと自分自身のお金がない痛みを
人に重ね合わせて癒そうとしていたのかもしれない。
一環して言い続けた「見返りを求めず提供する」ということ
もうじゅうぶん証明出来たかな。
行動で示したかったんよ。
こんな人間もいるんだと。
ここからは価値の提供に力を入れていきたいんだ。
こんなことを思い出した。
フリーマーケットでハンドメイドを売ってた時
おばさんが値切ってくるんだよね。
僕はおばさんが気に入ってくれたのなら。。
と応じたのだけれど
おばさんからしてみれば安く買えればそれでよかったんだよね。
そして値切るということは
その商品にそれだけの価値はないと言い放ってるも同じ。
大量生産したものを流通を通して量販店で販売しているものなら
まあまあ。。と思うけど、
一対一でハンドメイドのものを値切る人って
ちょっと変わってるよね。
自分が得すればそれでいい。
僕の今の行動はそんな考えの人を引き寄せてるように思えた。
なおきちを利用して自分が得すればいい、
口には出さなくとも本人も意識しなくとも
無意識の段階でそんなことを思っているから
行動にでてしまう。
それでもかまわないと思っていた。
別に腹もたたない。
人間なんてそんなものってどこかで思っているから。
だから見返りを求めてないと公言出来るのだと思う。
とてもさみしい人間なのだろうなぁと自分自身思う。
でも、同時にそんな人ばかりじゃないことも知ってる。
どうしょうもなく優しくてあたたかい人もいる。
俺を利用しても利用した分返そうとする人もいる。
口には出さないけどそういうのはちゃんとわかる。
いいことはみんなのおかげ、
悪い事は俺のせい。
それは心のそこからそう思う。
何事も言い訳なんてしない!
全ての原因は自分自身なんだ。
どんなときも。
少し前にフリー戦略というのが流行った。
これはすごいと正直思ったし
これは本質に近いと思った。
インターネットやデジタルを使えば
この戦略は最強かもしれない。
だからこそ、無料というのは
これから恐ろしい物になる。
何かを受け取るということは
同時に何かを失っている可能性が
非常に高い時代がくる。
無料で受け取った便利な物が
人生を狂わす。
それはもうこの世の中では起きている。
全てはちゃんと理解して納得したうえでやること。
受け取る物と差し出すものを
自分の価値観で考えて差し引き納得出来るなら
受け取ればいい。
仕組みの裏側になにがあるのか。
それを考えないと恐い時代になる。
2014年は自分の価値観でいくと決めてる。
何が起きようとも。
人が離れる事もあるだろう。
しかし、その事によって新しい風が吹くだろう。
俺から切る事はかなり少ない。
価値を高める戦略に切り替える。
本来の自分に素直に。
努力している人が認められる形に。
スキルが高い人が評価される形に。
誰もが不快な感情を抱く事無くコミュニケーションをとれる形に。
仲間に何も与えようとせず
自分だけが受け取り続ければそれは居心地がいいだろう。
しかし、そんな組織なんて誰も求めていない。
嫌いな人と一緒に過ごす時間も求めてないだろう。
誰もが自分が認める大好きな人と一緒に遊びたい。
無駄のない濃いメンバーで遊びたい。
常に刺激があって飽きないことをやりたい。
そう願っているのではないか。
なおきちという人間は
今から考えると本当にどうしょうもないやつだった。
だから、自己中な人や嫌われてしまう人や
不器用な人の気持ちがすごくわかる。
自分自身がそうだったからね。
だからその人達の居場所を確保することを
最優先に考えてしまっていたように思う。
その犠牲として大好きな仲間もたくさん失ったし
優秀な人の離脱にも繋がった。
わかっていたけど
じゃあ、嫌われた人はどこへいくの?と思った。
ここにしか居場所がない人は
ここで嫌われたらもう後がない。
誰からも好かれる人は居場所なんてどこにでもある。
ここにいてほしいけど
俺は無意識のうちに嫌われ者をかばってきた。
しかし、当然だけど嫌われてしまう人には原因がある。
俺がどれだけ尽くしても最終的には
俺に文句を言っていなくなるメンバーも
少なくない。
それでも見返りを求めずにしたことだし
俺も完璧な人間ではないから
自分の非だけを考え反省しようと思ってきた。
恩着せがましいのは嫌だから。
そして俺はいつも人を人間的なレベルで
見てしまっていることに罪悪感を抱えていた。
自分でいうのもなんだけど、
このレベル分けは結構正確な自信がある。
関われば関わる程正確になる。
昔からこれは出来てたし
誰にでも出来るものだと思っていたけど
そうでもないと知ったのは割と最近。
もともとが狭く深くしか人と関われない人間だから
自分と合うか合わないかを察知する習慣が
ついてたんだろうね。
人の好き嫌いは激しい方だった。
自分に素直に生きてたときは
嫌いな人と仲良くする意味も一切わかんなかった。
人生において嫌いな人と関わる事以上に
無駄な事なんてないと思ってた。笑
大好きな人と関われればそれでいい。
そう思っていたし
今も心のどこかでその想いは消えていない。
俺はここ数年批判されることや
否定されることに恐怖を感じていた。
けど、乗り越えなければ
先は無いと思った。
組織の価値を高めることを決めた。
2014年はそこに尽力する。
優秀な人間は最優先で俺の近くにおく。
人間的に成長したり
スキルが高い人ももちろん評価していく。
そして成長出来る場や
各自が自分の好きな事を仕事に出来るように
していけるようなシステムも考える!
全ては俺が決める。
うん、俺が全て決める!!
最後に、
俺は人を偉そうに人間的なレベルでわけたりしてて
これから組織を最適化しようと思ってる、
俺は平等に扱いたいのだけど
この考えは差別かもしれないと思い悩んだとき
「本当の平等とはみんなを同じように扱うことではなくて
頑張った人や優秀な人は評価し
そうじゃない人にはそれなりの評価をくだす」
それが俺なりの平等だと思ったと信頼出来る人に言った。
そのときもらった言葉を。
「差別と区別は違うよ。」
ありがとう。
その通りだ。
2013年12月29日日曜日
揺るがない財産を築く。
今年(2013年)の半ばくらいからかな。
SNSの危うさを実感した。
SNSに限らず今あるものは
必ずいつか衰退していく。
そう考えた時に
じゃあ、確実性のあるものって
一体なんだ。
と考えた。
確実性のあるもの。。
それは「己」自身であったり
今、この手の届く範囲に存在するもの。
たくさんの物に囲まれて生活しているが
俺にとって武器となるものは
手の届く場所になにがあるんだ。
パソコン
冷蔵庫
プリンタ
テレビ
インターネット
家
自動車
お風呂
トイレ
キッチン
作業出来るスペース
寝るスペース
考え事が出来るスペース
ホワイトボード
いくつかあった。
所有という概念は幻想だと思っている。
いつか人間は死ぬ。
その時には必ず現世に譲らなければならないのだ。
だから借りても買っても
本質的にはそんなに違いは無い。
人間が勝手に決めた概念なので。
物じゃなければなんだろ。
考えた。
スキル
知識
人脈
データ
身体能力
内面的魅力
外見的魅力
そんなところだろう。
つまり、
大きくわけると自分自身と
自分の手の届く範囲のものとなる。
自分自身は磨いていくとして
インターネット上での出来事を
リアルに置き換えすぎるのは危ない。
紙切れなら燃やすか捨てるかしなければ
基本的には手元にずっとあるが
ネット上のデータは勝手に改変される可能性もあるし
一夜のうちに0になることだってある。
運良くここまで
大きなトラブルはないが
確実性のあることをしようと思った。
時代は変化していく。
それに対応する方法は
手元にある基盤を使い続けられるという前提だけだ。
SNSでは規約違反をすればアカウントは削除される。
例え理不尽な理由だとしても。
ブログサービスを提供している会社が潰れれば
何年も書き続けたブログデータは
0になってしまうかもしれない。
全て手元に残しておけ。
データとして。
自分のパソコンのハードディスクの中に
いれておけ。
そう思うようになって
必死でホームページの勉強をした。
簡単な事は出来るようになった。
自分の組織用のサーバも借りて
独自ドメインも取得した。
必要だと感じたらすぐに行動する事。
これが大切。
その気になれば一週間後でさえ
大きく変えられるだろう。
人や会社を信用出来ないのは
とてもさみしいことだと思うが
俺にとっては積み上げたデータが
全て0になってしまうことのほうが淋しい。
人をあてにしすぎて失敗しても
その人のせいにするわけにはいかないでしょ。
だったら、あらかじめ先回りして
フォローしておくのがいい。
どんな事態が起きても
最悪大丈夫なように。
SNSの危うさを実感した。
SNSに限らず今あるものは
必ずいつか衰退していく。
そう考えた時に
じゃあ、確実性のあるものって
一体なんだ。
と考えた。
確実性のあるもの。。
それは「己」自身であったり
今、この手の届く範囲に存在するもの。
たくさんの物に囲まれて生活しているが
俺にとって武器となるものは
手の届く場所になにがあるんだ。
パソコン
冷蔵庫
プリンタ
テレビ
インターネット
家
自動車
お風呂
トイレ
キッチン
作業出来るスペース
寝るスペース
考え事が出来るスペース
ホワイトボード
いくつかあった。
所有という概念は幻想だと思っている。
いつか人間は死ぬ。
その時には必ず現世に譲らなければならないのだ。
だから借りても買っても
本質的にはそんなに違いは無い。
人間が勝手に決めた概念なので。
物じゃなければなんだろ。
考えた。
スキル
知識
人脈
データ
身体能力
内面的魅力
外見的魅力
そんなところだろう。
つまり、
大きくわけると自分自身と
自分の手の届く範囲のものとなる。
自分自身は磨いていくとして
インターネット上での出来事を
リアルに置き換えすぎるのは危ない。
紙切れなら燃やすか捨てるかしなければ
基本的には手元にずっとあるが
ネット上のデータは勝手に改変される可能性もあるし
一夜のうちに0になることだってある。
運良くここまで
大きなトラブルはないが
確実性のあることをしようと思った。
時代は変化していく。
それに対応する方法は
手元にある基盤を使い続けられるという前提だけだ。
SNSでは規約違反をすればアカウントは削除される。
例え理不尽な理由だとしても。
ブログサービスを提供している会社が潰れれば
何年も書き続けたブログデータは
0になってしまうかもしれない。
全て手元に残しておけ。
データとして。
自分のパソコンのハードディスクの中に
いれておけ。
そう思うようになって
必死でホームページの勉強をした。
簡単な事は出来るようになった。
自分の組織用のサーバも借りて
独自ドメインも取得した。
必要だと感じたらすぐに行動する事。
これが大切。
その気になれば一週間後でさえ
大きく変えられるだろう。
人や会社を信用出来ないのは
とてもさみしいことだと思うが
俺にとっては積み上げたデータが
全て0になってしまうことのほうが淋しい。
人をあてにしすぎて失敗しても
その人のせいにするわけにはいかないでしょ。
だったら、あらかじめ先回りして
フォローしておくのがいい。
どんな事態が起きても
最悪大丈夫なように。
2013年12月28日土曜日
セレクトしなければ価値はない。
雑貨屋さんに置き換えてみるとわかりやすいだろう。
なんでもありの雑貨屋さんってダサいと思ってる。
選んだりせずに安いから仕入れたものから
高級なものまであれば
高級な物の価値は下がりどうでもいいものに薄められてしまう。
お店の雰囲気から雑貨の価値は決まってると思います。
雑貨屋さんで働いたことがあるから言えるけど
おしゃれな雑貨屋さんって実は取り扱ってるものは
似ていたりする。
でも、どの店にあるかによって
それがおしゃれなのかどうなのかも
見え方が変わってきたりする。
その理由はやはりブランディングだろう。
このお店は明らかにおしゃれなお店だから
変な物は置かないだろう。。
そういう信用のもと雑貨を買う人もいます。
これは服屋さんも同じで
おしゃれなお店に奇抜なものを置いていても違和感ないけど
何十年も昔からあるおばちゃんしかいかないようなお店に
奇抜なものを置いてたら
これ誰が着るの?ってなるよね。
そう。
ブランディングが大事で
もっと言えばセレクトすることが大事。
それが信用に繋がり価値があがるのだ。
何を「良し」とし
何を「駄目」だと判断するか。
結局それはオーナーのセンスや価値観なんだよね。
セレクトショップなんかその典型で
オーナーがこれは間違いない!
これはすごく好きだ!
というものを取り揃えそのセンスに共感してくれた人が
お客様になる。
そういう場合、商品の値段はそこまで関係なくなる事が多い。
競合の世界での商売ではなくなるから。
その地域ではそこでしか売っていない物があれば
少々高くても気に入れば買うし
少量しかいれないなら仕入れコストも
値段におおいに反映させることになるだろう。
それでも「ありがとう。」と感謝してくれる
価値のわかる人というのはいるものだ。
何を選び
何を選ばないか。
セレクトするということは
批判されるということでもある。
センスなんて人それぞれだから
いいという人もいれば悪いという人もいる。
おしゃれだというひともいれば
ダサいという人もいる。
自分がこれは最高だ!
と声高に叫んでしまえば
「それはどうかな。。」
なんて否定をいれてくる人は必ずいる。
セレクトしなければ否定もない。
。。が、そこに価値もないんだよ。
完全に0。
何も生み出せやしないんだ。
人それぞれなのだから
自分が好きだからと言って
相手も同じように好きとは限らない。
自分が好きだと思う物を
嫌いだという人があらわれても
それでも人は人、自分は自分なのだと
思えるのであれば是非セレクトすることを
おすすめしたい。
そして人のセレクトしたものを批判する必要もない。
誰もが自分のセンスで選んだ物を
堂々と掲げられる時代であってほしいと思ってる。
そしてそんな時代の中で僕も
大胆にセレクトしていかなければならないと
今、強く思っている。
なんでもありの雑貨屋さんってダサいと思ってる。
選んだりせずに安いから仕入れたものから
高級なものまであれば
高級な物の価値は下がりどうでもいいものに薄められてしまう。
お店の雰囲気から雑貨の価値は決まってると思います。
雑貨屋さんで働いたことがあるから言えるけど
おしゃれな雑貨屋さんって実は取り扱ってるものは
似ていたりする。
でも、どの店にあるかによって
それがおしゃれなのかどうなのかも
見え方が変わってきたりする。
その理由はやはりブランディングだろう。
このお店は明らかにおしゃれなお店だから
変な物は置かないだろう。。
そういう信用のもと雑貨を買う人もいます。
これは服屋さんも同じで
おしゃれなお店に奇抜なものを置いていても違和感ないけど
何十年も昔からあるおばちゃんしかいかないようなお店に
奇抜なものを置いてたら
これ誰が着るの?ってなるよね。
そう。
ブランディングが大事で
もっと言えばセレクトすることが大事。
それが信用に繋がり価値があがるのだ。
何を「良し」とし
何を「駄目」だと判断するか。
結局それはオーナーのセンスや価値観なんだよね。
セレクトショップなんかその典型で
オーナーがこれは間違いない!
これはすごく好きだ!
というものを取り揃えそのセンスに共感してくれた人が
お客様になる。
そういう場合、商品の値段はそこまで関係なくなる事が多い。
競合の世界での商売ではなくなるから。
その地域ではそこでしか売っていない物があれば
少々高くても気に入れば買うし
少量しかいれないなら仕入れコストも
値段におおいに反映させることになるだろう。
それでも「ありがとう。」と感謝してくれる
価値のわかる人というのはいるものだ。
何を選び
何を選ばないか。
セレクトするということは
批判されるということでもある。
センスなんて人それぞれだから
いいという人もいれば悪いという人もいる。
おしゃれだというひともいれば
ダサいという人もいる。
自分がこれは最高だ!
と声高に叫んでしまえば
「それはどうかな。。」
なんて否定をいれてくる人は必ずいる。
セレクトしなければ否定もない。
。。が、そこに価値もないんだよ。
完全に0。
何も生み出せやしないんだ。
人それぞれなのだから
自分が好きだからと言って
相手も同じように好きとは限らない。
自分が好きだと思う物を
嫌いだという人があらわれても
それでも人は人、自分は自分なのだと
思えるのであれば是非セレクトすることを
おすすめしたい。
そして人のセレクトしたものを批判する必要もない。
誰もが自分のセンスで選んだ物を
堂々と掲げられる時代であってほしいと思ってる。
そしてそんな時代の中で僕も
大胆にセレクトしていかなければならないと
今、強く思っている。
人間的レベルの階層。
あまりこういう事を口に出すのは
よくないと思い書く事も少ないのだけれど
ちょっと書いてみるか。
人間的なレベルについて考えた事はありますか?
子供
中学生
大人
年配の方。。
不良
大学生
主婦
社長。。
様々な年齢、性別、立場の人がいますよね。
でも、どの立ち位置だからレベルが高いとか低いとかって
ないと思います。
社長さんでも愚かな人はいますし
主婦でもしっかりとした考えの方はいらっしゃいます。
人間的なレベルには経験値が関わっている事が多い。
極端に人と関わってこなかった人や
嫌われている事を知りつつも改善してこなかった人等
問題から逃げてきた人は人間的なレベルが低い人が
多いような気がします。
人は悲しい事がたくさんあって優しくなります。
人の気持ちがわかるようになります。
思っていたより現実が厳しかったり
思っていたより優しくしてもらえたり。。
実際の社会で学ぶことは本当に多い。
しかし、それをしてこなかった人というのは
人との関わり方がわからなかったり
人の気持ちがわからなかったりします。
自分が正しいと思い込んでいる人も
経験値が足りてない人に多いですね。
人間的なレベルの低い人と高い人とでは
かみ合いません。
人間的なレベルが低い人は自分が得をしようと考え
レベルが高い人は人を得させようと考えます。
レベルが低い人はどうやってお金を使わずにすむかを考え
レベルが高い人はどうやって有意義に無駄なくお金を使うかを考えます。
価値観自体が全く違うのです。
レベルが低い人は歩み寄る姿勢も乏しいので本当に残念です。
この人間的なレベルの階層が違う人達を
同じ空間にとどめておくことは出来ません。
別々の次元を生きる人達だから。
レベルの低い人には成長の場所、
レベルの高い人には有意義な時間を過ごせる場所が
あるといいなと思いました。
レベルが低いというとまるで差別しているようですが
そういうつもりは一切無くて
誰だって経験値がないときには同じようにしていたはずなんです。
ちょっと成長が遅れているだけであって
経験値を高めれば上手になることも多いはず。
誰もが愛される人間であってほしい。
勝手ながらそう強く思います!
人間的なレベルに関してはいつも考えるので
僕ももっと向上したいと思い
本を読んでみたり行動してみたり
スキルアップをはかってみたりします。
実際、去年できなかった事が
今年出来た。。ということはよくあります。
目に見える成長は意識的に作れてるけど
目に見えない本質的な成長の方が
僕にとっては価値ある事なんです。
心の底から人を想い行動出来る人でありたい。
柔軟に相手のレベルに合わせて会話が出来る人でありたい。
何に対しても見下すことはないですが
このレベルという概念がないと
対等に話す事も出来ない。
自分の世界を狭める事になる。
みんな同じ対応ではダメなんですよね。
だからあえてこのレベルという話しを書いてみました。
世の中の事は目に見えないこと、
誰も教えてくれない事のほうが
大切なんですよね。
そういうことを意識してないと
いつの間にか誰かの都合のいいように
行動してしまうことになります。
人間的なレベル、もっともっとあげたいな。
出来る事なら一緒に成長していける仲間を増やしていきたい。
なかなかこういう真面目な話しをする機会ってないけど
僕はこういう話し好きなので
是非機会があれば語りましょう。
深い話し、好きです。
よくないと思い書く事も少ないのだけれど
ちょっと書いてみるか。
人間的なレベルについて考えた事はありますか?
子供
中学生
大人
年配の方。。
不良
大学生
主婦
社長。。
様々な年齢、性別、立場の人がいますよね。
でも、どの立ち位置だからレベルが高いとか低いとかって
ないと思います。
社長さんでも愚かな人はいますし
主婦でもしっかりとした考えの方はいらっしゃいます。
人間的なレベルには経験値が関わっている事が多い。
極端に人と関わってこなかった人や
嫌われている事を知りつつも改善してこなかった人等
問題から逃げてきた人は人間的なレベルが低い人が
多いような気がします。
人は悲しい事がたくさんあって優しくなります。
人の気持ちがわかるようになります。
思っていたより現実が厳しかったり
思っていたより優しくしてもらえたり。。
実際の社会で学ぶことは本当に多い。
しかし、それをしてこなかった人というのは
人との関わり方がわからなかったり
人の気持ちがわからなかったりします。
自分が正しいと思い込んでいる人も
経験値が足りてない人に多いですね。
人間的なレベルの低い人と高い人とでは
かみ合いません。
人間的なレベルが低い人は自分が得をしようと考え
レベルが高い人は人を得させようと考えます。
レベルが低い人はどうやってお金を使わずにすむかを考え
レベルが高い人はどうやって有意義に無駄なくお金を使うかを考えます。
価値観自体が全く違うのです。
レベルが低い人は歩み寄る姿勢も乏しいので本当に残念です。
この人間的なレベルの階層が違う人達を
同じ空間にとどめておくことは出来ません。
別々の次元を生きる人達だから。
レベルの低い人には成長の場所、
レベルの高い人には有意義な時間を過ごせる場所が
あるといいなと思いました。
レベルが低いというとまるで差別しているようですが
そういうつもりは一切無くて
誰だって経験値がないときには同じようにしていたはずなんです。
ちょっと成長が遅れているだけであって
経験値を高めれば上手になることも多いはず。
誰もが愛される人間であってほしい。
勝手ながらそう強く思います!
人間的なレベルに関してはいつも考えるので
僕ももっと向上したいと思い
本を読んでみたり行動してみたり
スキルアップをはかってみたりします。
実際、去年できなかった事が
今年出来た。。ということはよくあります。
目に見える成長は意識的に作れてるけど
目に見えない本質的な成長の方が
僕にとっては価値ある事なんです。
心の底から人を想い行動出来る人でありたい。
柔軟に相手のレベルに合わせて会話が出来る人でありたい。
何に対しても見下すことはないですが
このレベルという概念がないと
対等に話す事も出来ない。
自分の世界を狭める事になる。
みんな同じ対応ではダメなんですよね。
だからあえてこのレベルという話しを書いてみました。
世の中の事は目に見えないこと、
誰も教えてくれない事のほうが
大切なんですよね。
そういうことを意識してないと
いつの間にか誰かの都合のいいように
行動してしまうことになります。
人間的なレベル、もっともっとあげたいな。
出来る事なら一緒に成長していける仲間を増やしていきたい。
なかなかこういう真面目な話しをする機会ってないけど
僕はこういう話し好きなので
是非機会があれば語りましょう。
深い話し、好きです。
2013年12月26日木曜日
本当の不幸について。
時々こんな事を考えます。
本当に不幸なのはどういう事なのかと。
それを考える時に相対的に本当の幸福についても考えます。
昔はお金持ちの家の子供に生まれてたら
絶対幸せだったのに!なんて
考えていました。
だけど、大人になって色々な経験をしたり
色々な人を見ているうちに
どうも一概には言えない事に気付いたのです。
僕は何不自由なく育ててもらいました。
そのことに関して親に感謝しています。
ありあまるお小遣いというものはなかったので
自分で試行錯誤して作るようになりました。
お金のかからない遊びをしようという発想を持ちました。
お金をかけて遊べば簡単に遊べます。
しかし、お金をかけずに遊ぼうと思ったら
アイデアと工夫が必要です。
まず、誰かが用意してくれた遊びではなく
自分達で「遊び」自体を創り出したりします。笑
ルールを決めて改善していって
より楽しい遊びになるように。
そして無い物はダンボールや家にあるもので
作ったりして遊んでいました。
子供の時からブロックが大好きで
ブロックでモデリングして
ダンボールで作るみたいな感覚がありました。
今の子供はどうかわからないけど
あの当時子供だった僕にとってダンボールと
ガムテープとハサミとマジックさえあれば
なんでも作れるような気がしました。
ある日、冷蔵庫が家にきました。
その冷蔵庫の箱を見た時
目が輝いたのを今でも覚えています。
冷蔵庫の箱を切ったり貼ったりして
ベランダに秘密基地を作りました。
秘密基地と言っても
家族全員知っていますが。。笑
そして外からも丸見えですが
あの当時秘密基地にすごく憧れていたので。
ダンボールを切ったり貼ったりして作った
秘密基地の中は子供だった僕にとっては
とても広く自分だけの空間が嬉しかったです。
しかし、ベランダに作った秘密基地は
大人の生活にとっては邪魔だったのか
数日で撤去することになりました。
すごくイヤだったのを覚えています。
クリスマスの時には
ケーキを食べました。
美味しかったし楽しかった。
でも、もっと食べれたらいいのになぁ。。
っていうのはいつも思っていました。
子供の時の渇望感というのは
大人になってからの行動に直結していると思います。
大人になったらケーキ1ホール全部1人で食べたい。。
本格的な秘密基地を作りたい。
そういう気持ちは今でも思い出す事が出来ます。
当時はうまくいかず思い通りに出来ず
大人が簡単に叶えてくれないことを恨んだりしました。
しかし、出来なかった事を自分の力で
やることが許されるようになってから
見事にクリエイティビティが最大化したように思います。
お金持ちじゃないからわからないけれど
もしも身の回りの事をしてくれる人がいたり
欲しい物が全て手に入っていたなら
物なんてどうでもいいと思っていたかもしれない。
怪獣のように我が侭に
オオカミのように走り回りながらすごした幼少時代が
あったからこそ無いものにフォーカスするよりも
欲しすぎて創り出してしまおう!という発想が生まれた。
あまりにも欲が強いとこうなるのだと自分で思った。
なんでも自分でやる習慣がつく。
何もないなら作ればいいという発想が身に付く。
それは大人になってはじめて気付いたけど
誰もが持っている物ではなくて
特別な才能なのだと。
何かが満たされていれば
同時に何かは退化していく。
逆に
何かが満たされなければ
何かは進化していくんだ。。
そして思った。
お金持ちだから偉いわけじゃない。
お金持ちの子供だからスキルが高いわけじゃない。
普通の家庭の子供の方がスキルが高いこともあるじゃないか。
お金持ちの有利なところは様々な経験をしているところ。
海外旅行や美味しい物を食べた経験があったりする。
これも思うんだけど、
もしかしたら求めてない時に海外旅行に行っても
あまり感動はないのかもしれない。
僕は学校の勉強って退屈で堪え難かった。
あれは求めても無いのに詰め込まれようとするから。
すごく不快だった。
どうしょうもなく。
でも、今の僕は誰も頼んでもいないのに
自分で本を買ったりネットで調べたりしながら
自分の興味がある事を勉強してる。
時には勉強する為に数万円支払う事だってある!!
しかも、先生とかに教えてもらう為ではなく
自分なりの実験や教材費に。
基本的に自分のペースでやりたいから
人に教えてもらうことは少ない。
ほぼ皆無。
ペースを乱されることは何よりも嫌いだから。
うんざりするのでね。
話しを戻します。
本当の不幸とは何か。
僕が思う本当の不幸とは
自分が幸福だと気付いていない人だと思います。
どんなことでも表と裏があり
メリットとデメリットがある。
同じ物でも光が当たってる部分だけを見れば
キレイに見えるし
影の部分を見れば黒いだけだ。
でも、同じ物であり見方、視点が違うだけ。
つまり、マイナスな面を見て悲しむ必要は無いってこと。
どんなこともプラスに置き換えられる。
そして言い訳をいつもしている人も本当に不幸。
自分に都合のいい言い訳をしている人を見ると
とても悲しくなる。
自身の深層心理にさえ気付いていないのか
「あえて」自分はそうしていると
熱弁する人もいるが
少し人間力が高い人から見れば
それは自分の心を守る為に
顕在意識がそう言わせているということに気付く。
他人でもそれを見破れるのに
本人は自分が本当にそう思っていると思い込んでいたりする。
とても残念。
そういう熱弁を聞くと人は離れていってしまう。
自分の心に素直に。
お金があるかどうかは
本当の幸せをはかる材料の一つとして
数える事が出来るかもしれないが
ただの材料の一つにしかすぎない。
それよりももっと大きな要素はたくさんある。
何が大きな要素となるかは
人それぞれだ。
本当の幸福を考える事によって
相対的に不幸が見えてくるし
不幸について考える事によって
幸福が見えてくる。
一般的な幸福論なんてどうでもよくて
それぞれの価値で考えたらいい。
幸福まで常識にしばられなければならないのか。
そんなことは絶対にない!
あなたはあなたらしく。
ダメなとこもあっていいよ。
上手く付き合っていくことが大切だ。
たくさんの人と関わり
ぶつかり、たくさんたくさん悲しい想いをして
角がとれていくんだよ。
そしてま〜るくま〜るくなったとき
人にぶつかっても優しくなれるようになるんだよ。
おそれずにさ、いこう。
上手に出来ないときもある。
恥ずかしい思いをしてしまうこともある。
でも、頑張ってる姿勢っていうのは
どれだけ不器用だろうが下手だろうが
とても美しいと思うんだ。
出来ない理由を並べてるとこなんて見たくないよ。
やる理由、出来る理由を見つけるんだよ。
ないなら強引にでも作るんだよ!
本当は格好わるいことこそカッコいいよ。
ダサい自分を見せれる人ってカッコいいしかわいらしい。
幸福はいつだって自分の中にある。
見るものではなく感じるものだからさ。
あなたの目の前にたくさんの不幸が押し寄せても
傷だらけになりボロボロになろうとも
もしかしたらその事によって最後の「カド」がとれて
幸福に転がりだすかもしれない。
本当に不幸なのはどういう事なのかと。
それを考える時に相対的に本当の幸福についても考えます。
昔はお金持ちの家の子供に生まれてたら
絶対幸せだったのに!なんて
考えていました。
だけど、大人になって色々な経験をしたり
色々な人を見ているうちに
どうも一概には言えない事に気付いたのです。
僕は何不自由なく育ててもらいました。
そのことに関して親に感謝しています。
ありあまるお小遣いというものはなかったので
自分で試行錯誤して作るようになりました。
お金のかからない遊びをしようという発想を持ちました。
お金をかけて遊べば簡単に遊べます。
しかし、お金をかけずに遊ぼうと思ったら
アイデアと工夫が必要です。
まず、誰かが用意してくれた遊びではなく
自分達で「遊び」自体を創り出したりします。笑
ルールを決めて改善していって
より楽しい遊びになるように。
そして無い物はダンボールや家にあるもので
作ったりして遊んでいました。
子供の時からブロックが大好きで
ブロックでモデリングして
ダンボールで作るみたいな感覚がありました。
今の子供はどうかわからないけど
あの当時子供だった僕にとってダンボールと
ガムテープとハサミとマジックさえあれば
なんでも作れるような気がしました。
ある日、冷蔵庫が家にきました。
その冷蔵庫の箱を見た時
目が輝いたのを今でも覚えています。
冷蔵庫の箱を切ったり貼ったりして
ベランダに秘密基地を作りました。
秘密基地と言っても
家族全員知っていますが。。笑
そして外からも丸見えですが
あの当時秘密基地にすごく憧れていたので。
ダンボールを切ったり貼ったりして作った
秘密基地の中は子供だった僕にとっては
とても広く自分だけの空間が嬉しかったです。
しかし、ベランダに作った秘密基地は
大人の生活にとっては邪魔だったのか
数日で撤去することになりました。
すごくイヤだったのを覚えています。
クリスマスの時には
ケーキを食べました。
美味しかったし楽しかった。
でも、もっと食べれたらいいのになぁ。。
っていうのはいつも思っていました。
子供の時の渇望感というのは
大人になってからの行動に直結していると思います。
大人になったらケーキ1ホール全部1人で食べたい。。
本格的な秘密基地を作りたい。
そういう気持ちは今でも思い出す事が出来ます。
当時はうまくいかず思い通りに出来ず
大人が簡単に叶えてくれないことを恨んだりしました。
しかし、出来なかった事を自分の力で
やることが許されるようになってから
見事にクリエイティビティが最大化したように思います。
お金持ちじゃないからわからないけれど
もしも身の回りの事をしてくれる人がいたり
欲しい物が全て手に入っていたなら
物なんてどうでもいいと思っていたかもしれない。
怪獣のように我が侭に
オオカミのように走り回りながらすごした幼少時代が
あったからこそ無いものにフォーカスするよりも
欲しすぎて創り出してしまおう!という発想が生まれた。
あまりにも欲が強いとこうなるのだと自分で思った。
なんでも自分でやる習慣がつく。
何もないなら作ればいいという発想が身に付く。
それは大人になってはじめて気付いたけど
誰もが持っている物ではなくて
特別な才能なのだと。
何かが満たされていれば
同時に何かは退化していく。
逆に
何かが満たされなければ
何かは進化していくんだ。。
そして思った。
お金持ちだから偉いわけじゃない。
お金持ちの子供だからスキルが高いわけじゃない。
普通の家庭の子供の方がスキルが高いこともあるじゃないか。
お金持ちの有利なところは様々な経験をしているところ。
海外旅行や美味しい物を食べた経験があったりする。
これも思うんだけど、
もしかしたら求めてない時に海外旅行に行っても
あまり感動はないのかもしれない。
僕は学校の勉強って退屈で堪え難かった。
あれは求めても無いのに詰め込まれようとするから。
すごく不快だった。
どうしょうもなく。
でも、今の僕は誰も頼んでもいないのに
自分で本を買ったりネットで調べたりしながら
自分の興味がある事を勉強してる。
時には勉強する為に数万円支払う事だってある!!
しかも、先生とかに教えてもらう為ではなく
自分なりの実験や教材費に。
基本的に自分のペースでやりたいから
人に教えてもらうことは少ない。
ほぼ皆無。
ペースを乱されることは何よりも嫌いだから。
うんざりするのでね。
話しを戻します。
本当の不幸とは何か。
僕が思う本当の不幸とは
自分が幸福だと気付いていない人だと思います。
どんなことでも表と裏があり
メリットとデメリットがある。
同じ物でも光が当たってる部分だけを見れば
キレイに見えるし
影の部分を見れば黒いだけだ。
でも、同じ物であり見方、視点が違うだけ。
つまり、マイナスな面を見て悲しむ必要は無いってこと。
どんなこともプラスに置き換えられる。
そして言い訳をいつもしている人も本当に不幸。
自分に都合のいい言い訳をしている人を見ると
とても悲しくなる。
自身の深層心理にさえ気付いていないのか
「あえて」自分はそうしていると
熱弁する人もいるが
少し人間力が高い人から見れば
それは自分の心を守る為に
顕在意識がそう言わせているということに気付く。
他人でもそれを見破れるのに
本人は自分が本当にそう思っていると思い込んでいたりする。
とても残念。
そういう熱弁を聞くと人は離れていってしまう。
自分の心に素直に。
お金があるかどうかは
本当の幸せをはかる材料の一つとして
数える事が出来るかもしれないが
ただの材料の一つにしかすぎない。
それよりももっと大きな要素はたくさんある。
何が大きな要素となるかは
人それぞれだ。
本当の幸福を考える事によって
相対的に不幸が見えてくるし
不幸について考える事によって
幸福が見えてくる。
一般的な幸福論なんてどうでもよくて
それぞれの価値で考えたらいい。
幸福まで常識にしばられなければならないのか。
そんなことは絶対にない!
あなたはあなたらしく。
ダメなとこもあっていいよ。
上手く付き合っていくことが大切だ。
たくさんの人と関わり
ぶつかり、たくさんたくさん悲しい想いをして
角がとれていくんだよ。
そしてま〜るくま〜るくなったとき
人にぶつかっても優しくなれるようになるんだよ。
おそれずにさ、いこう。
上手に出来ないときもある。
恥ずかしい思いをしてしまうこともある。
でも、頑張ってる姿勢っていうのは
どれだけ不器用だろうが下手だろうが
とても美しいと思うんだ。
出来ない理由を並べてるとこなんて見たくないよ。
やる理由、出来る理由を見つけるんだよ。
ないなら強引にでも作るんだよ!
本当は格好わるいことこそカッコいいよ。
ダサい自分を見せれる人ってカッコいいしかわいらしい。
幸福はいつだって自分の中にある。
見るものではなく感じるものだからさ。
あなたの目の前にたくさんの不幸が押し寄せても
傷だらけになりボロボロになろうとも
もしかしたらその事によって最後の「カド」がとれて
幸福に転がりだすかもしれない。
誰にもらった出会いか。
誰しも周りに人がたくさんいると思うんです。
その出会いについて深く考えることはありますか??
僕は時々考えるんです。
考えた時に自分の行動だけで出会えた人なんて
本当は1人もいません。
職場で出会った人でさえ
その会社を作った人間がいなければ
出会う事もなかった。
自分の力で何かをやった。
なんてことは正直幻想だと思っています。
直接誰かを紹介してもらったら
いつも僕は出会いをくれたその人に
強く感謝します。
繋いでくれたことに。
友達には友達がいてその友達にもさらに友達がいるわけですが
思いの外横に繋がっていく事って大人になってから
少ないと思いませんか?
重要な出会いやチャンスは大体人が持ってきてくれるものです。
それは経験から本当にそう思うのです。
重要な人物に出会えたから
それでいい。
ではないですよね。
出会わせてくれた人にまず感謝です。
その出会いについて深く考えることはありますか??
僕は時々考えるんです。
考えた時に自分の行動だけで出会えた人なんて
本当は1人もいません。
職場で出会った人でさえ
その会社を作った人間がいなければ
出会う事もなかった。
自分の力で何かをやった。
なんてことは正直幻想だと思っています。
直接誰かを紹介してもらったら
いつも僕は出会いをくれたその人に
強く感謝します。
繋いでくれたことに。
友達には友達がいてその友達にもさらに友達がいるわけですが
思いの外横に繋がっていく事って大人になってから
少ないと思いませんか?
重要な出会いやチャンスは大体人が持ってきてくれるものです。
それは経験から本当にそう思うのです。
重要な人物に出会えたから
それでいい。
ではないですよね。
出会わせてくれた人にまず感謝です。
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