2013年9月7日土曜日

損得の基準。

損をするとか得をするとか
少なからず考える事はあります。

しかし、自分が物質的に損をするからといって
実際に損しているのかというと
必ずしもそうではない。

その事に気付くまでに
すごく時間がかかったように思います。

よく「生き金」とか「死に金」とかいいますが
それは言語化するときに必要なだけであって
基本的に人の為になることをしていれば
自分の時間、お金、労力を失ったとしても
プラスにはなるはず。

重要なのは独りよがりの「相手のため」ではなく
本当に相手が困っていたり求めてくれている時に
それを用意出来るか、助けてあげられるかどうか
なんだと思います。

相手が求めてもいないのに
よかれと思ってする事に関しては
逆効果の事だってあります。

求めていないのにするのは
ただのおせっかい。

相手と自分にとって不利益しかうまない。
自分の気持ちも相手に届かない。
本当に勿体ない。


そのへんの感覚がちゃんと正常にある人に限って言えば
自分と相手との境界線をなくしてしまえば
損得なんて考えなくていいと思っています。

相手を自分の一部のように思う事が出来れば
お金を使っても自分に使ったのと同じ。
損してる事にはならない。

誰もが自分の幸せの為なら
労力も時間もお金も使います。

なんで自分と相手をわけないといけないのでしょうか。
「幸せ」に関して言えば
相手の幸せも自分の事のように思う事が出来れば
わける必要なんてないし
見返りなんて求める必要もない。

そのときはじめて本当の親切や思いやりが
生まれるのだと思っています。

自分のエゴや自尊心、自己顕示欲を満たす為に
人を使うものではない。


今よりももっともっと愚かだった頃は
得する事をよく考えてた。
しかし、今は人をどう得させようかいつも考えてる。
その中にしか自分自身の幸せはないと気付いたから。

自分の中に自分の幸せがあるのだと思っていたけれど
相手の中、他人の中にしか
自分の幸せってないんだよ。

その精神姿勢こそが最終的に自分も周りも幸せにする。

人は自分にしてもらったことを返そうとする。
自分が常に心の底から
人の幸せを願い行動出来ていて
的外れなものでなければ
同じように人からも自分の事のように
自分の幸せを願ってもらえるものなんだよな。

”得”しようと思うのではなく
”徳”しようと思う事が大切なのではないかと
ふと思ったので残しておきます。

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